立憲主義とは何か
白川真澄(ピープルズ・プラン研究所運営委員)
2014年5月記
※「市民の意見」144号(「市民の意見30の会・東京」、2014年6月1日)より転載
民主主義とは何かと聞かれれば、多くの人は何かしらの答えをするにちがいない。民意にもとづく政治とか、みんなで討議して最後は多数決で決めるとか。ところが、立憲主義とは何かと問われても、聞いたことがないと言う人のほうが多いだろう。それほど立憲主義という言葉は、日本社会のなかに根づいてこなかった。
しかし、憲法とは何か、なぜ必要なのか、憲法と法律はどう違うのか。こうした憲法に関わる重要な問いと答えがぎゅっと詰まっているのが、立憲主義である。
政府の権力を縛る憲法
立憲主義とは、一言でいえば、個人の自由(人権)を守るために政府の権力(国家権力)を憲法によって制限する、ということである。国家権力に勝手なことをさせないように、憲法であらかじめ縛りをかけることだ、と言ってもよい。
この社会では、政府は市民(自由な個人)どうしの合意と契約の上に成り立っている。これはある種のフィクション(作り話)ではあるが、みんなに承認された約束事であり、それに従って政治や法や市場経済の仕組みやルールも作られている。政府は市民の信託を受けて公共的なサービスを提供する仕事をするが、同時に強大な権力を手にしている。税金を取り立てたり、人を逮捕し拘束できる強制力である。そのため、政府は市民の自由を脅かしたり圧迫することに走りがちである。
そこで、政府がけっして侵害してはならない個人の自由を、「人権」として保障することが必要になる。人権を守るために政府の権力行使の自由を制限するルールを定めたものが、憲法である。だから、よく読むと分かるが、憲法に書かれていることは、政府がしてはならない事柄や果たすべき義務なのである。思想・良心の自由、信仰の自由、言論・表現の自由、学問の自由などを保障する、つまり政府がこれらの自由を侵害してはならないと定めている。日本の憲法ではさらに第9条によって、政府が軍隊を持ったり戦争を始めること(交戦権)まで禁じている。政府の自由を制限するという立憲主義が、そこまで徹底している。
裏返して言うと、憲法は、市民がしてはならない事柄や果たすべき義務を定めていない。他人を殺傷する行為は、憲法ではなくその下位の法律(刑法)で禁じられている。借りたお金は約束どおり返さなければならないことは、民法で定められている。
このように、市民は法律によって自らの行動を縛られるが、反対に憲法によって政府の行為を縛るのである。だから、「憲法を尊重し擁護する義務」は、権力を行
立場の人間にだけ課せられている(第99条)。
しかし、憲法には勤労、教育、納税という国民の3つの義務も書かれているではないかと反論する人もいるだろう。だが、働かないからといって、罪に問われることはない。子どもに「教育を受けさせる義務」は、子どもが「教育を受ける権利」の実現を支えるものである。また「法律の定めるところにより、納税の義務を負う」という条文も、政府が課税するときには必ず必要な法律を作るべきことを強調したものだ、と解釈されている。
リベラリズムとデモクラシー
ここで大事なことは、立憲主義は、たとえ民主主義的に選出された政府であってもそのの権力行使を制限するべきだ、と主張するという点である。民衆(国民)が政治に参加し民衆の意思を代表する政府ができる、つまり国民主権(主権在民)が実現しても、政府が独走しないかと警戒し、枠をはめておくのである。
このように、民主主義(デモクラシー)と立憲主義は、政府の権力行使に対する向き合い方が正反対なのである。民主主義は、民衆が政治(公共的な事柄の決定)に積極的に参加し、国家権力の行使の主体(主権者)になることをめざす。統治する者と統治される者が合致し、民衆が自ら統治することを想定する。これに対して、立憲主義は、個人の自由の実現に最大の価値をおくリベラリズムに立脚している。リベラリズムは、政府の圧政から個人の自由を確保することに力を注ぐ。治者と被治者とはあくまでも別々である、と見る。
そこから、民主主義は、民衆の政治参加(意思表示)を選挙の投票だけでなく住民投票やデモといった形で実現しようとする。対して、リベラリズムは、政府の権力行使を情報公開の徹底といった方法で監視し、チェックする。
民主主義では、民衆(国民)という集団が決定の主体になる。しかし、そこではしばしば少数者の意見や権利が無視されたり切り捨てられるという問題が起こる。これは「多数者の専制」と呼ばれ、民主主義が抱える落とし穴である。そこで、リベラリズムがなくてはならない役割を果たすことになる。それは個人が自ら決めることを優先するから、少数者や当事者の意見や権利を無視して多数派が物事を決めることにブレーキをかける。このことによって、民主主義も、多数決で何でも決める民主主義から、少数者の発言権や当事者の拒否権を認めた多元的な民主主義に進化する。
国民の多数派の意思で決めてはいけないこと
樋口陽一さんの言葉を借りると、民主主義の原理は「みんなで決める」ことである。立憲主義の原理は、「みんなで決めてはいけない」ことがある、になる。言いかえると、多数決で決めたり変えたりできない事柄(たとえば人権の尊重)をあらかじめ明確にしておく、ということだ。
改憲に前のめりの安倍首相は昨年、その入口として第96条を先行して改正すると言いだした。「3分の1を越える国会議員が『変えられない』と言えば、国民は意思表示の手段すら行使できなかった」(13年3月12日、衆院予算委員会)。だから、改正手続きを緩和して「国民の手に憲法を取り戻す」(同4月23日、参院予算委員会)のだ、と。改憲するかどうかを国民の多数派の意思に委ねるべきだと主張し、国民主権の論理を持ち出したわけである。
これに対して、「96条の先行改憲は、立憲主義を破壊する企てだ」という強い批判が、改憲に賛成する人まで含めて湧き起こった。そのため、安倍首相もこの企てをいったん引っ込めざるをえなくなった。立憲主義という言葉がマスコミでもよく使われるようになり、人びとのなかに少しは知られるようになったのは、96条の先行改憲の問題が浮上したことがきっかけであった。その意味では、安倍首相の「功績」と言えるかもしれない。
それでは、96条は、なぜ改憲に高いハードルを設けているのか。一般の法律は、そのときどきの国民の多数派の意思(実際には国会の多数派の意見)によって決めてよい。しかし、憲法の中心には人権の保障といった普遍的な原理、つまり社会や民族や文化の違いを越えて通用する原理が置かれている。それは、国民の多数派が賛成したから否定してもよい、とはけっしてならない原理である。
ここには、国民主権も万能ではない、という考えが貫かれている。それは、国民の多数派はしばしばムードに流されて間違った判断を下す可能性がある、という歴史から学んだ知恵でもある。だから、ひんぱんに改憲を繰り返してきた国々でも、改憲手続きに高いハードルを設けたり、改正の対象にしてはならない原理や項目を明記しているのである。
憲法のなかには、たとえば統治の仕組みやルール(国会や内閣)に関する多くの項目が定められている。三権分立とか地方自治といった原理・原則とならんで、国会議員の任期といった事柄も記されている。こうした事柄までも国民の多数派の意思で変更してはならないとは、誰も言わないだろう。しかし、普遍性をもつがゆえに変えてはならない原理こそが、憲法の要である。
立憲主義は、国民主権(民主主義)を制限してまでも、普遍的な原理を守ろうとする。その原理とは個人の自由の尊重であり、人権という思想である。人権は、たしかに西欧近代に出自をもつ思想だが、世界のあらゆる国々や地域で人びとが圧政に対する抵抗や解放運動を通じて確認し、共有してきたものである。その意味で、普遍性を主張できる原理なのである。
そもそも憲法が国民によって選ばれた政府の権力行使を制限できるのは、それが人権という普遍的な原理をそなえているからである。この原理を否認するような改憲は、改憲ではなく憲法そのものの自殺行為であり、憲法の破壊(「壊憲」)なのである。
憲法が拠って立つ原理の180度の転換――自民党の憲法改正草案
憲法は、普遍的な原理に拠って政府の権力を制限する。この立憲主義の考え方を、安倍首相は真っ向から否定する。「憲法が国家権力を縛るものだという考えは、1つの考え方であって、絶対王政の時代の主流的な考え方。憲法は(日本という)国の形、理想、未来を語るものである」(14年2月3日、衆院予算委員会)。
憲法が政府の権力を縛るという考え方は時代遅れのものだ、というわけである。代わって、憲法が「国の形、理想、未来を語るもの」だということは、何を意味するのか。憲法は、自国の歴史や伝統にもとづく国家のアイデンティティを示す規範である。つまり、「美しい国」を作るという国民のあるべき姿や生き方を提示するもの(「行為規範」)だ、と言いたいのである。
こうした憲法の見方は、自民党の憲法改正草案に絵に画いたように現われている。「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち」、「天皇を戴く国家である」。「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」。「良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここにこの憲法を制定する」(前文)。
そこでは、憲法は、人権という普遍的な原理に代わって、民族の「長い歴史と固有の文化」と「良き伝統」に立脚するものにすり替られている。「基本的人権の尊重」という言葉だけは残っているが、それが普遍的な原理であることは巧みに消去されている。現在の憲法にある「人類普遍の原理」(前文)、「基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(第97条)という規定をものの見事に削り落しているからだ。
安倍首相と自民党の改憲の狙いは、憲法が拠って立つ原理を人権という普遍的な原理からナショナリズム(ナショナル・アイデンティティ)に180度転換することにある。それは、個人の自由や人権といった憲法の最も重要な価値の否定である。人権という普遍的な原理の上に立つ立憲主義を壊すことである。
安倍政権の改憲は、憲法そのものを破壊する「壊憲」にほかならない。
参考文献:樋口陽一『いま「憲法改正」をどう考えるか』(2013年、岩波書店)
白川真澄(ピープルズ・プラン研究所運営委員)
2014年5月記
※「市民の意見」144号(「市民の意見30の会・東京」、2014年6月1日)より転載
民主主義とは何かと聞かれれば、多くの人は何かしらの答えをするにちがいない。民意にもとづく政治とか、みんなで討議して最後は多数決で決めるとか。ところが、立憲主義とは何かと問われても、聞いたことがないと言う人のほうが多いだろう。それほど立憲主義という言葉は、日本社会のなかに根づいてこなかった。
しかし、憲法とは何か、なぜ必要なのか、憲法と法律はどう違うのか。こうした憲法に関わる重要な問いと答えがぎゅっと詰まっているのが、立憲主義である。
政府の権力を縛る憲法
立憲主義とは、一言でいえば、個人の自由(人権)を守るために政府の権力(国家権力)を憲法によって制限する、ということである。国家権力に勝手なことをさせないように、憲法であらかじめ縛りをかけることだ、と言ってもよい。
この社会では、政府は市民(自由な個人)どうしの合意と契約の上に成り立っている。これはある種のフィクション(作り話)ではあるが、みんなに承認された約束事であり、それに従って政治や法や市場経済の仕組みやルールも作られている。政府は市民の信託を受けて公共的なサービスを提供する仕事をするが、同時に強大な権力を手にしている。税金を取り立てたり、人を逮捕し拘束できる強制力である。そのため、政府は市民の自由を脅かしたり圧迫することに走りがちである。
そこで、政府がけっして侵害してはならない個人の自由を、「人権」として保障することが必要になる。人権を守るために政府の権力行使の自由を制限するルールを定めたものが、憲法である。だから、よく読むと分かるが、憲法に書かれていることは、政府がしてはならない事柄や果たすべき義務なのである。思想・良心の自由、信仰の自由、言論・表現の自由、学問の自由などを保障する、つまり政府がこれらの自由を侵害してはならないと定めている。日本の憲法ではさらに第9条によって、政府が軍隊を持ったり戦争を始めること(交戦権)まで禁じている。政府の自由を制限するという立憲主義が、そこまで徹底している。
裏返して言うと、憲法は、市民がしてはならない事柄や果たすべき義務を定めていない。他人を殺傷する行為は、憲法ではなくその下位の法律(刑法)で禁じられている。借りたお金は約束どおり返さなければならないことは、民法で定められている。
このように、市民は法律によって自らの行動を縛られるが、反対に憲法によって政府の行為を縛るのである。だから、「憲法を尊重し擁護する義務」は、権力を行
立場の人間にだけ課せられている(第99条)。
しかし、憲法には勤労、教育、納税という国民の3つの義務も書かれているではないかと反論する人もいるだろう。だが、働かないからといって、罪に問われることはない。子どもに「教育を受けさせる義務」は、子どもが「教育を受ける権利」の実現を支えるものである。また「法律の定めるところにより、納税の義務を負う」という条文も、政府が課税するときには必ず必要な法律を作るべきことを強調したものだ、と解釈されている。
リベラリズムとデモクラシー
ここで大事なことは、立憲主義は、たとえ民主主義的に選出された政府であってもそのの権力行使を制限するべきだ、と主張するという点である。民衆(国民)が政治に参加し民衆の意思を代表する政府ができる、つまり国民主権(主権在民)が実現しても、政府が独走しないかと警戒し、枠をはめておくのである。
このように、民主主義(デモクラシー)と立憲主義は、政府の権力行使に対する向き合い方が正反対なのである。民主主義は、民衆が政治(公共的な事柄の決定)に積極的に参加し、国家権力の行使の主体(主権者)になることをめざす。統治する者と統治される者が合致し、民衆が自ら統治することを想定する。これに対して、立憲主義は、個人の自由の実現に最大の価値をおくリベラリズムに立脚している。リベラリズムは、政府の圧政から個人の自由を確保することに力を注ぐ。治者と被治者とはあくまでも別々である、と見る。
そこから、民主主義は、民衆の政治参加(意思表示)を選挙の投票だけでなく住民投票やデモといった形で実現しようとする。対して、リベラリズムは、政府の権力行使を情報公開の徹底といった方法で監視し、チェックする。
民主主義では、民衆(国民)という集団が決定の主体になる。しかし、そこではしばしば少数者の意見や権利が無視されたり切り捨てられるという問題が起こる。これは「多数者の専制」と呼ばれ、民主主義が抱える落とし穴である。そこで、リベラリズムがなくてはならない役割を果たすことになる。それは個人が自ら決めることを優先するから、少数者や当事者の意見や権利を無視して多数派が物事を決めることにブレーキをかける。このことによって、民主主義も、多数決で何でも決める民主主義から、少数者の発言権や当事者の拒否権を認めた多元的な民主主義に進化する。
国民の多数派の意思で決めてはいけないこと
樋口陽一さんの言葉を借りると、民主主義の原理は「みんなで決める」ことである。立憲主義の原理は、「みんなで決めてはいけない」ことがある、になる。言いかえると、多数決で決めたり変えたりできない事柄(たとえば人権の尊重)をあらかじめ明確にしておく、ということだ。
改憲に前のめりの安倍首相は昨年、その入口として第96条を先行して改正すると言いだした。「3分の1を越える国会議員が『変えられない』と言えば、国民は意思表示の手段すら行使できなかった」(13年3月12日、衆院予算委員会)。だから、改正手続きを緩和して「国民の手に憲法を取り戻す」(同4月23日、参院予算委員会)のだ、と。改憲するかどうかを国民の多数派の意思に委ねるべきだと主張し、国民主権の論理を持ち出したわけである。
これに対して、「96条の先行改憲は、立憲主義を破壊する企てだ」という強い批判が、改憲に賛成する人まで含めて湧き起こった。そのため、安倍首相もこの企てをいったん引っ込めざるをえなくなった。立憲主義という言葉がマスコミでもよく使われるようになり、人びとのなかに少しは知られるようになったのは、96条の先行改憲の問題が浮上したことがきっかけであった。その意味では、安倍首相の「功績」と言えるかもしれない。
それでは、96条は、なぜ改憲に高いハードルを設けているのか。一般の法律は、そのときどきの国民の多数派の意思(実際には国会の多数派の意見)によって決めてよい。しかし、憲法の中心には人権の保障といった普遍的な原理、つまり社会や民族や文化の違いを越えて通用する原理が置かれている。それは、国民の多数派が賛成したから否定してもよい、とはけっしてならない原理である。
ここには、国民主権も万能ではない、という考えが貫かれている。それは、国民の多数派はしばしばムードに流されて間違った判断を下す可能性がある、という歴史から学んだ知恵でもある。だから、ひんぱんに改憲を繰り返してきた国々でも、改憲手続きに高いハードルを設けたり、改正の対象にしてはならない原理や項目を明記しているのである。
憲法のなかには、たとえば統治の仕組みやルール(国会や内閣)に関する多くの項目が定められている。三権分立とか地方自治といった原理・原則とならんで、国会議員の任期といった事柄も記されている。こうした事柄までも国民の多数派の意思で変更してはならないとは、誰も言わないだろう。しかし、普遍性をもつがゆえに変えてはならない原理こそが、憲法の要である。
立憲主義は、国民主権(民主主義)を制限してまでも、普遍的な原理を守ろうとする。その原理とは個人の自由の尊重であり、人権という思想である。人権は、たしかに西欧近代に出自をもつ思想だが、世界のあらゆる国々や地域で人びとが圧政に対する抵抗や解放運動を通じて確認し、共有してきたものである。その意味で、普遍性を主張できる原理なのである。
そもそも憲法が国民によって選ばれた政府の権力行使を制限できるのは、それが人権という普遍的な原理をそなえているからである。この原理を否認するような改憲は、改憲ではなく憲法そのものの自殺行為であり、憲法の破壊(「壊憲」)なのである。
憲法が拠って立つ原理の180度の転換――自民党の憲法改正草案
憲法は、普遍的な原理に拠って政府の権力を制限する。この立憲主義の考え方を、安倍首相は真っ向から否定する。「憲法が国家権力を縛るものだという考えは、1つの考え方であって、絶対王政の時代の主流的な考え方。憲法は(日本という)国の形、理想、未来を語るものである」(14年2月3日、衆院予算委員会)。
憲法が政府の権力を縛るという考え方は時代遅れのものだ、というわけである。代わって、憲法が「国の形、理想、未来を語るもの」だということは、何を意味するのか。憲法は、自国の歴史や伝統にもとづく国家のアイデンティティを示す規範である。つまり、「美しい国」を作るという国民のあるべき姿や生き方を提示するもの(「行為規範」)だ、と言いたいのである。
こうした憲法の見方は、自民党の憲法改正草案に絵に画いたように現われている。「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち」、「天皇を戴く国家である」。「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」。「良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここにこの憲法を制定する」(前文)。
そこでは、憲法は、人権という普遍的な原理に代わって、民族の「長い歴史と固有の文化」と「良き伝統」に立脚するものにすり替られている。「基本的人権の尊重」という言葉だけは残っているが、それが普遍的な原理であることは巧みに消去されている。現在の憲法にある「人類普遍の原理」(前文)、「基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(第97条)という規定をものの見事に削り落しているからだ。
安倍首相と自民党の改憲の狙いは、憲法が拠って立つ原理を人権という普遍的な原理からナショナリズム(ナショナル・アイデンティティ)に180度転換することにある。それは、個人の自由や人権といった憲法の最も重要な価値の否定である。人権という普遍的な原理の上に立つ立憲主義を壊すことである。
安倍政権の改憲は、憲法そのものを破壊する「壊憲」にほかならない。
参考文献:樋口陽一『いま「憲法改正」をどう考えるか』(2013年、岩波書店)