昨年度、準備はしたが、コロナ休校等の事情により実践できなかった授業「家父長制対フェミニズム」をここで紹介します。「家父長制」を男による女の支配/差別、「フェミニズム」をこの支配/差別と闘う理論や思想とし、この対抗の姿を、近代社会に探り、現状を考えることを授業の目的としました。近代以前も儒教やキリスト教には、子は父親に、妻は夫に、未亡人となれば長男に従えとの教えがありました。これを支えるイデオロギーは「女は男より、体力、知性が劣っている」というもので、これが真理を隠す働きをしてきたわけです。授業では?夫婦別姓、?近代家族と買売春、?男/女はいかにして作られるのか、という三つの軸を立て、対抗の姿を説明しました。
? 夫婦別姓から考える 栗田路子他『夫婦別姓』(ちくま新書、2021年)から各国事情を紹介
日本社会は伝統的には別姓でした。分かりやすい例は源頼朝の妻が北条政子であることです。明治維新後、西欧モデルの近代化を進めた政府は、1870年から民法を構想し始め、1890年に一旦制定しました。しかしいわゆる「民法典論争」が起こり、ようやく1898年の施行となりました。これにより西欧の影響下、家父長制的「家」制度の中で、夫婦は同姓となったのです。第2次大戦敗北後、占領改革の中で、「家」制度は廃止されましたが、今や「二つの中国」と日本にだけある戸籍制度とともに夫婦同姓の強制は戦後も存続して、今日に問題を残しています。比較のため各国の婚姻と姓の制度を簡単に授業では紹介しました。
父系家族主義の中国では、伝統的に夫婦は別姓で、あくまで嫁は他の氏の(つまりよそ者)マーカーとして機能してきました。しかし1949年の中華人民共和国成立後、翌50年の「婚姻法」で男女平等原則の別姓となり、儒教と父系家族主義から解放され、今日にいたるまで女性は広く深く社会に進出しています。お隣韓国も儒教的父系家族主義から夫婦別姓でしたが、日本の植民地支配を受け、日本的戸籍制度が導入されるも夫婦同姓には例外を設けていました。しかし1941年からの5年間は「皇民化政策」により夫婦同姓でした。45年の解放後、別姓に戻りましたが「戸籍」「戸主制度」はそのまま。女性たちは男女平等を求め戦い続け、ついに1989年家族法改正、2005年に戸主制度と戸籍も廃止され、完全男女平等の個人に基づく登録制度が成立し、個人の自由の実現において日本を追い越しました。
自由意志を尊重するイギリスでは、同姓も別姓も連結姓もあるが、そもそも、姓も名前も個人が自由にいつでも変更できるので、日本的な法による夫婦同姓という問題は生じません。コモン・ロー(判例法)の国イギリスでは「法によって禁止されていること」以外なんでも自由なのです。しかしこうしたイギリスでも1870年まではカヴァチャーと呼ばれる法の下、女性は家父長制の支配下にありました。女性は結婚によって夫の庇護下に入り、契約主体となれず、自分の財産も収入も夫の懐に入っていました。妻はミセス+夫のフルネームで呼ばれていたのです。女性の長い戦いは1960年代70年代に入ると、ミズの使用推進によってこうした事態と闘う運動がおきました。現在も法的というよりは社会的慣習のもと、夫の姓を名乗る人も多いようですが、デフォルトの結婚証明書ではそれぞれの姓名記入のみなので何もしなければ別姓です。
フランスではナポレオン法典=家父長制民法が長く女性を差別してきましたが、第二次世界大戦後、都市化、世俗化、女性の就業率向上などの変化によって、1965年以降、既婚女性の権利拡大が進み、1968年「5月革命」後、家父長制はいっきに揺らぎ、男女平等と自由化が進みました。85年ミッテラン政権下、身分証明書で出生姓の横に選んだ通称を記載し、自由に使用できるようになっています。今では半分の女性が出生姓や夫の姓を連結した姓を使用しています。ドイツでは1991年から別姓可能になったとはいえ、多数は婚姻後夫の姓を使用しています。メルケル前首相は最初の結婚で夫の姓となり、二度目の結婚時は別姓を選んだため、前夫の姓メルケルを使用し続けています。ベルギーは個人の正式な姓名は出生届に書かれていたもの。婚姻は個人の姓名に何の影響も与えません。その他、この本には興味深い事実が満載ですが、授業ではこれくらいを紹介しました。それを踏まえ、現在提起されている選択的夫婦別姓についての生徒の意見を書いて提出する。その後、特徴的な意見をこちらで選び、印刷したプリントを、班ごとに読み、意見交換しその結果を黒板に班ごとに書いたものをもとにさらに討論するという流れを予定。
? 近代家族と売買春から考える
近代社会では、個人の活動領域を公私にわけ、公領域では主に男が市民社会のアクターとして政治に参加し経済的な活動によりカネを稼ぐ一方、私領域としての家庭で女性は結婚後、家族の世話=無償労働に従事するようになったことを説明しました。ここで日本近代に焦点を絞り、政治集会への参加、官吏になること、選挙権等の公法上の差別に加え、民法の作る差別と刑法上の差別、これが交差する売買春制度を紹介しました。民法はすったもんだのあげく、1898年(M31)に施行され、いわゆる「妻の無能力」が法定されました。これは民法上、重要な法行為を夫の許可なく行うことができない規定です。夫の許可無く、友人を家に入れることも民法上はできなかったのです。遺産相続も男子直系卑属がいるかぎりそちらが優先されました。刑法上の姦通罪は妻には無条件で適応され、夫は相手の夫が訴えれば有罪となりますが、未婚女性との性交は自由でした。
売買春は江戸期から遊郭がその舞台でしたが、貧しい家庭から、前借金と年期に縛られる事実上の人身売買によって遊女は供給されていました。ところが1872年(M5年)、ある部分では開明的な明治政府は太政官布告により芸娼妓などの解放令を発し、人身売買を禁止し、娼妓の自由廃業を認めました。この背景にはマリア・ルス号事件が関係しているという説もありますが、その悲惨な境遇を知る各地で貧困家庭の女子の人身売買は禁止すべきだという考えもかなり浸透していたようです。しかしその後政府は76年に売買春禁止を骨抜きにし、地方長官認可の限定地区内営業が開始されました。いわゆる公娼制です。福岡県などは警察とタッグを組み強力にこうした事業を支持し、自由な女性の売買春業に部屋を貸すという名目でこの商売は貸座敷業として存続していきました。反対運動は民権派県議(群馬県会は1889年M22に廃娼を実施)や人道主義に立つキリスト教会や、ブルジョワ女性の側から展開され、また大正デモクラシー期にはこれに加え国際連盟の方針や女性解放運動の立場からの廃娼運動がありました。また娼妓も警察に廃業を申し出るなどの行為やスト、脱走などを行いましたが、中には自殺、心中など悲惨な抵抗もありました。一方、こうした廃業行為(法律上は借金の有無にかかわりなく、当人に意志によって廃業可能)を外出禁止規則や警察の協力を得て妨害しながら存置派は、「男の抑えがたき欲望」には売買春が必要だ、身売りは、貧困家庭に資金を提供し救済しているから、むしろ社会に役立っていると主張していました。
構造的にみると、家父長制は、女性を、「男の危険な欲望」から逃れ、結婚し子を産む女性と、貧困故に娼妓となり、男の欲望の受け皿となり、そこでは生まないことを強制される(妊娠すれば強制的に中絶)女性に分断していたのです。ブルジョワ女性の中には、遊郭存置の理由に、それがなければ良家の子女の貞操があぶないと主張するものもいたのです。法的には姦通罪が男には限定的にしか適用されないことが重要な前提でした。社会的には貧富の大きな差があり、貧困故の身売りが娼妓の供給を保障していました。こうした家父長制が強固に展開された日本で、植民地を利用し軍が従軍「慰安婦」制度を作ったことは容易に理解できるのです。敗戦後も、日本男性の意識は変わらず、GHQに廃止を求められた公娼制は「特殊飲食店制度」として維持されますが、新憲法、姦通罪廃止、民法改正、夫婦平等の家族法、相続法などは女性の新しい生き方を可能しました。授業はこうしてざっと日本近代史をたどり、考える材料を提供しました。森崎和江『買春王国の女たち』(宝島社、1993年)を主に参考にしました。
? 男/女はいかにして作られるか
ここではセジウィックの理論を要約したプリントを上野千鶴子『女ぎらい ニッポンのミソジニー』(朝日文庫、)から作り、それを生徒が要約し、意見を書くという授業展開を予定していました。「2 ホモソーシャル・ホモフォビア・ミソジニー」と「16 ミソジニーは超えられるか」から上野さんがセジウィック理論を説明している部分を印刷・配布しました。もとの本の翻訳はイヴ・セジウィック 上原・亀澤訳『男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望』(名古屋大学出版会、2001年)です。
以上が授業の概要です。倫理の教科書にはまとまってこうした問題を考える章がなく、それはそれで問題だと思いますが、実際に授業を行い生徒の反応を確かめられなかったことが残念です。コロナ恐るべし。
? 夫婦別姓から考える 栗田路子他『夫婦別姓』(ちくま新書、2021年)から各国事情を紹介
日本社会は伝統的には別姓でした。分かりやすい例は源頼朝の妻が北条政子であることです。明治維新後、西欧モデルの近代化を進めた政府は、1870年から民法を構想し始め、1890年に一旦制定しました。しかしいわゆる「民法典論争」が起こり、ようやく1898年の施行となりました。これにより西欧の影響下、家父長制的「家」制度の中で、夫婦は同姓となったのです。第2次大戦敗北後、占領改革の中で、「家」制度は廃止されましたが、今や「二つの中国」と日本にだけある戸籍制度とともに夫婦同姓の強制は戦後も存続して、今日に問題を残しています。比較のため各国の婚姻と姓の制度を簡単に授業では紹介しました。
父系家族主義の中国では、伝統的に夫婦は別姓で、あくまで嫁は他の氏の(つまりよそ者)マーカーとして機能してきました。しかし1949年の中華人民共和国成立後、翌50年の「婚姻法」で男女平等原則の別姓となり、儒教と父系家族主義から解放され、今日にいたるまで女性は広く深く社会に進出しています。お隣韓国も儒教的父系家族主義から夫婦別姓でしたが、日本の植民地支配を受け、日本的戸籍制度が導入されるも夫婦同姓には例外を設けていました。しかし1941年からの5年間は「皇民化政策」により夫婦同姓でした。45年の解放後、別姓に戻りましたが「戸籍」「戸主制度」はそのまま。女性たちは男女平等を求め戦い続け、ついに1989年家族法改正、2005年に戸主制度と戸籍も廃止され、完全男女平等の個人に基づく登録制度が成立し、個人の自由の実現において日本を追い越しました。
自由意志を尊重するイギリスでは、同姓も別姓も連結姓もあるが、そもそも、姓も名前も個人が自由にいつでも変更できるので、日本的な法による夫婦同姓という問題は生じません。コモン・ロー(判例法)の国イギリスでは「法によって禁止されていること」以外なんでも自由なのです。しかしこうしたイギリスでも1870年まではカヴァチャーと呼ばれる法の下、女性は家父長制の支配下にありました。女性は結婚によって夫の庇護下に入り、契約主体となれず、自分の財産も収入も夫の懐に入っていました。妻はミセス+夫のフルネームで呼ばれていたのです。女性の長い戦いは1960年代70年代に入ると、ミズの使用推進によってこうした事態と闘う運動がおきました。現在も法的というよりは社会的慣習のもと、夫の姓を名乗る人も多いようですが、デフォルトの結婚証明書ではそれぞれの姓名記入のみなので何もしなければ別姓です。
フランスではナポレオン法典=家父長制民法が長く女性を差別してきましたが、第二次世界大戦後、都市化、世俗化、女性の就業率向上などの変化によって、1965年以降、既婚女性の権利拡大が進み、1968年「5月革命」後、家父長制はいっきに揺らぎ、男女平等と自由化が進みました。85年ミッテラン政権下、身分証明書で出生姓の横に選んだ通称を記載し、自由に使用できるようになっています。今では半分の女性が出生姓や夫の姓を連結した姓を使用しています。ドイツでは1991年から別姓可能になったとはいえ、多数は婚姻後夫の姓を使用しています。メルケル前首相は最初の結婚で夫の姓となり、二度目の結婚時は別姓を選んだため、前夫の姓メルケルを使用し続けています。ベルギーは個人の正式な姓名は出生届に書かれていたもの。婚姻は個人の姓名に何の影響も与えません。その他、この本には興味深い事実が満載ですが、授業ではこれくらいを紹介しました。それを踏まえ、現在提起されている選択的夫婦別姓についての生徒の意見を書いて提出する。その後、特徴的な意見をこちらで選び、印刷したプリントを、班ごとに読み、意見交換しその結果を黒板に班ごとに書いたものをもとにさらに討論するという流れを予定。
? 近代家族と売買春から考える
近代社会では、個人の活動領域を公私にわけ、公領域では主に男が市民社会のアクターとして政治に参加し経済的な活動によりカネを稼ぐ一方、私領域としての家庭で女性は結婚後、家族の世話=無償労働に従事するようになったことを説明しました。ここで日本近代に焦点を絞り、政治集会への参加、官吏になること、選挙権等の公法上の差別に加え、民法の作る差別と刑法上の差別、これが交差する売買春制度を紹介しました。民法はすったもんだのあげく、1898年(M31)に施行され、いわゆる「妻の無能力」が法定されました。これは民法上、重要な法行為を夫の許可なく行うことができない規定です。夫の許可無く、友人を家に入れることも民法上はできなかったのです。遺産相続も男子直系卑属がいるかぎりそちらが優先されました。刑法上の姦通罪は妻には無条件で適応され、夫は相手の夫が訴えれば有罪となりますが、未婚女性との性交は自由でした。
売買春は江戸期から遊郭がその舞台でしたが、貧しい家庭から、前借金と年期に縛られる事実上の人身売買によって遊女は供給されていました。ところが1872年(M5年)、ある部分では開明的な明治政府は太政官布告により芸娼妓などの解放令を発し、人身売買を禁止し、娼妓の自由廃業を認めました。この背景にはマリア・ルス号事件が関係しているという説もありますが、その悲惨な境遇を知る各地で貧困家庭の女子の人身売買は禁止すべきだという考えもかなり浸透していたようです。しかしその後政府は76年に売買春禁止を骨抜きにし、地方長官認可の限定地区内営業が開始されました。いわゆる公娼制です。福岡県などは警察とタッグを組み強力にこうした事業を支持し、自由な女性の売買春業に部屋を貸すという名目でこの商売は貸座敷業として存続していきました。反対運動は民権派県議(群馬県会は1889年M22に廃娼を実施)や人道主義に立つキリスト教会や、ブルジョワ女性の側から展開され、また大正デモクラシー期にはこれに加え国際連盟の方針や女性解放運動の立場からの廃娼運動がありました。また娼妓も警察に廃業を申し出るなどの行為やスト、脱走などを行いましたが、中には自殺、心中など悲惨な抵抗もありました。一方、こうした廃業行為(法律上は借金の有無にかかわりなく、当人に意志によって廃業可能)を外出禁止規則や警察の協力を得て妨害しながら存置派は、「男の抑えがたき欲望」には売買春が必要だ、身売りは、貧困家庭に資金を提供し救済しているから、むしろ社会に役立っていると主張していました。
構造的にみると、家父長制は、女性を、「男の危険な欲望」から逃れ、結婚し子を産む女性と、貧困故に娼妓となり、男の欲望の受け皿となり、そこでは生まないことを強制される(妊娠すれば強制的に中絶)女性に分断していたのです。ブルジョワ女性の中には、遊郭存置の理由に、それがなければ良家の子女の貞操があぶないと主張するものもいたのです。法的には姦通罪が男には限定的にしか適用されないことが重要な前提でした。社会的には貧富の大きな差があり、貧困故の身売りが娼妓の供給を保障していました。こうした家父長制が強固に展開された日本で、植民地を利用し軍が従軍「慰安婦」制度を作ったことは容易に理解できるのです。敗戦後も、日本男性の意識は変わらず、GHQに廃止を求められた公娼制は「特殊飲食店制度」として維持されますが、新憲法、姦通罪廃止、民法改正、夫婦平等の家族法、相続法などは女性の新しい生き方を可能しました。授業はこうしてざっと日本近代史をたどり、考える材料を提供しました。森崎和江『買春王国の女たち』(宝島社、1993年)を主に参考にしました。
? 男/女はいかにして作られるか
ここではセジウィックの理論を要約したプリントを上野千鶴子『女ぎらい ニッポンのミソジニー』(朝日文庫、)から作り、それを生徒が要約し、意見を書くという授業展開を予定していました。「2 ホモソーシャル・ホモフォビア・ミソジニー」と「16 ミソジニーは超えられるか」から上野さんがセジウィック理論を説明している部分を印刷・配布しました。もとの本の翻訳はイヴ・セジウィック 上原・亀澤訳『男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望』(名古屋大学出版会、2001年)です。
以上が授業の概要です。倫理の教科書にはまとまってこうした問題を考える章がなく、それはそれで問題だと思いますが、実際に授業を行い生徒の反応を確かめられなかったことが残念です。コロナ恐るべし。