【つるたまさひで読書メモ】
『社会を変えるには』小熊英二著
第4回
372pからは小熊=ギデンズの『再帰的近代化』の説明があるのだが、これがわかりにくい。こんな風に書かれている。要約して記載
近代化には「単純な近代化」と「再帰的近代化」(リフレクシブ・モダナイゼーション)がある。再帰的近代化というのは、すべてが再帰的になる、つまり作り作られる度合いが高まり、安定性をなくしていく近代化のかたち。ポスト工業化社会になっている現代は、もう単純な近代化の時代ではない。「単純な近代化」というのは、個体論的な近代化が成り立っていた時代の近代化のこと。主体があり、客体を把握でき、計算して操作できる。票の合計が多い人を代表にすればいい。そういう考え方で政策ができた時代。なぜ、いまそれが成り立たないかといえば、「単純な近代化」の前提である「個体」が成り立たなくなってきたから。つまり、「村はひとつの個体なので、その民意は選ばれた代議士が代弁できる」とか「労働者階級にはこれこれの政策を実現すれば満足させることができる」とか、同様に、失業者には、母子家庭には、高齢者には、とうような前提がなりたたくななっているから。
この説明も前に紹介した『個体論でなく関係論』と表裏一体のものとして、とらえることができるかもしれない。
そのようなとらえかたから、当然の帰結として『「伝統」も作られる』という話になる。382p?
とはいうものの、やはり、この再帰的近代化というのが、ここだけでは理解しにくい。「ちゃんとギデンズを読めよ」という話でもあるのだろうが、やはり、ぼくはここで小熊さんが説明に失敗しているのだと思う。だって、ぼくにはわからないのだから(笑)。
そう、あまりにもわかりにくいので、検索してみた。もっとわかりやすい説明があった。http://www5b.biglobe.ne.jp/~hidejyu/Refrexive.htm
しかし、それでもわからない。この前半部分は理解できる。現在、単純な近代化は「その目的・対象を吸収し尽くして喪失した」と言える部分はあるかもしれない。しかし、これも評価がわかれる部分だろう。イリッチが40年前に世界には近代化されていない広大な領域があり、そこが近代化の失敗を同様にたどる必要はないのではないかと提起したように、ものすごいアンバランスな状態はありつつも、単純な近代化が完全には終わっていない地域もまだあるだろう。ま、そこまではまだいい。その先で、対象がないから「自己を近代化していく」というのがよくわからない。「再魔術化」と言ったのは山之内さんだっただろうか、これならまだわかる。
再帰性 reflexivity(ギデンズ、社会学) についてはhttp://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20061107 にも説明がある。
この説明はわかりやすいのだが、じゃあ、それを近代化にあてはめて、再帰的近代化といえば、どうなるか、それがわからない。
Reflexiveを英辞郎で見ると(わけのわからない「再帰的?」をはずした)以下のように記されている
【名】再帰動詞、再帰代名詞
【形】再帰の、反射的な
reflexive eye movement 反射性眼球運動、眼球の反射運動
reflexive law 反射律
reflexive object 再帰目的語
reflexive opposition 反射的な反対[抵抗]
reflexive opposition to ?に対する反射的な反対[抵抗]
reflexive relation 反射関係
reflexive response 反射的反応
reflexively【副】反射的に、ピクッと
reflexively cover one's ears 〔大きな音に対して〕思わず耳を塞ぐ
reflexively resist 反射的に抵抗[反撃・反抗]する
contract reflexively 〔筋肉などが〕反射的に収縮する
respond reflexively to ?に対して反射的に反応する
But the problem with being clever and original in software design is that it gets to be a habit -- you start reflexively making things cute and complicated when you should be keeping them robust and simple.
でもソフトの設計で、小利口で独創的になることの問題点は、それが習慣になってしまうことだ。 -- 堅牢でシンプルにしておかなきゃダメなのに、反射的にそれを媚びた複雑なものにしてしまいがちになる。
IRS (Individual Review System) involves oral training with one instructor, enabling students to reproduce all the words and phrases introduced in the previous lesson at the same speed as native Japanese speakers in order to get students using them reflexively in relevant situations.
生徒が学習した語彙やフレーズを、ネイティブの日本人と同じスピードで、実際の場面の中で反射的に、より自然に使えるようにするマンツーマン指導の口頭トレーニング、これがIRS(個人復習システム)だ。
????
で、この小熊さんの本には再帰性について、以下のような記述もある。
どうも、この「再帰」っていう訳語が悪いんじゃないかと思えてしまうのだが、ま、ここで書かれてることはなんとなくわかるような気がする。で、再帰性については、もう、これ以上の理解は難しそうなので、この先に進む。
ともあれ、この先の小熊さんによるギデンズの従来の右派と左派の限界に関する記述の紹介が少しだけ面白かったのだが、やっぱりしっくりこないなぁ。
欧米のことはよくわからないのだが、いまは自然保護についは左派も主張しているのではないか。
あと、「左派が客体の操作可能性を信じている」というのも時代遅れな感じがする。ギデンズがこれをいう前にはそうだったのかどうか。
そもそも左派ってなんなんだろうって話にもなるんだけど。
『社会を変えるには』小熊英二著
第4回
372pからは小熊=ギデンズの『再帰的近代化』の説明があるのだが、これがわかりにくい。こんな風に書かれている。要約して記載
近代化には「単純な近代化」と「再帰的近代化」(リフレクシブ・モダナイゼーション)がある。再帰的近代化というのは、すべてが再帰的になる、つまり作り作られる度合いが高まり、安定性をなくしていく近代化のかたち。ポスト工業化社会になっている現代は、もう単純な近代化の時代ではない。「単純な近代化」というのは、個体論的な近代化が成り立っていた時代の近代化のこと。主体があり、客体を把握でき、計算して操作できる。票の合計が多い人を代表にすればいい。そういう考え方で政策ができた時代。なぜ、いまそれが成り立たないかといえば、「単純な近代化」の前提である「個体」が成り立たなくなってきたから。つまり、「村はひとつの個体なので、その民意は選ばれた代議士が代弁できる」とか「労働者階級にはこれこれの政策を実現すれば満足させることができる」とか、同様に、失業者には、母子家庭には、高齢者には、とうような前提がなりたたくななっているから。
この説明も前に紹介した『個体論でなく関係論』と表裏一体のものとして、とらえることができるかもしれない。
そのようなとらえかたから、当然の帰結として『「伝統」も作られる』という話になる。382p?
とはいうものの、やはり、この再帰的近代化というのが、ここだけでは理解しにくい。「ちゃんとギデンズを読めよ」という話でもあるのだろうが、やはり、ぼくはここで小熊さんが説明に失敗しているのだと思う。だって、ぼくにはわからないのだから(笑)。
そう、あまりにもわかりにくいので、検索してみた。もっとわかりやすい説明があった。http://www5b.biglobe.ne.jp/~hidejyu/Refrexive.htm
ベックやギデンズが現代社会の特徴を把握するために用いた概念。ベックによれば、以前の近代化は自然と伝統という目的・対象(Objekt)を近代化していく「単純な近代化」であった。それは身分的な特権や宗教的な世界像を「脱魔術化」していく近代化である。しかし、現在、この近代化はその目的・対象を吸収し尽くして喪失し、自己を近代化していく段階に入った。これが「再帰的近代化」である。現代社会の変容と課題を理解するためには非常に有効な概念。
しかし、それでもわからない。この前半部分は理解できる。現在、単純な近代化は「その目的・対象を吸収し尽くして喪失した」と言える部分はあるかもしれない。しかし、これも評価がわかれる部分だろう。イリッチが40年前に世界には近代化されていない広大な領域があり、そこが近代化の失敗を同様にたどる必要はないのではないかと提起したように、ものすごいアンバランスな状態はありつつも、単純な近代化が完全には終わっていない地域もまだあるだろう。ま、そこまではまだいい。その先で、対象がないから「自己を近代化していく」というのがよくわからない。「再魔術化」と言ったのは山之内さんだっただろうか、これならまだわかる。
再帰性 reflexivity(ギデンズ、社会学) についてはhttp://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20061107 にも説明がある。
『日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界』 p.45-6 傍注より アンソニー・ギデンズは「諸個人がみずからの行為に関する情報を、その行為の根拠について検討・評価し直すための材料として活用すること」を「再帰性」と呼び、これの諸個人への浸透を近代社会の特徴とする。 たとえば、「再帰性」が浸透するにつれて、各地の伝統は「これまで伝承されてきたから」という理由だけではその継承が是認されなくなり、ある伝統が尊重される場合でも「なぜその伝統を守るのか」とその根拠がつねに問題視されるようになる。
「みずからの行為に関する情報を、その行為の根拠を検証し直す材料にすること」。 それがループ化すると、「自分はこれでいいんだろうか」という循環的な問い詰めが強迫化し、収拾がつかなくなる。「自分の状態についての問題意識が高まれば高まるほど、勉強して病理に詳しくなればなるほど状態が悪くなってゆく。 フロイトのモデルの逆」(斎藤環、「ICCシンポ」)。 既存のひきこもり支援は、「オタクになれ」という斎藤環氏まで含めて、再帰性を減衰・忘却させる方向を目指している。たとえば自転車に乗るときには、操作方法を意識してしまってはうまく運転できない。 自転車に乗るというのは、あれほど細い車輪でバランスを取り、よく考えるとものすごく高度なことをしているのだが、それは「意識しないから」できている。できない人は、操作方法をいちいち意識するので、かえってできなくなる。――同じ事情が、社会生活や人間関係にも言える。
この説明はわかりやすいのだが、じゃあ、それを近代化にあてはめて、再帰的近代化といえば、どうなるか、それがわからない。
Reflexiveを英辞郎で見ると(わけのわからない「再帰的?」をはずした)以下のように記されている
【名】再帰動詞、再帰代名詞
【形】再帰の、反射的な
reflexive eye movement 反射性眼球運動、眼球の反射運動
reflexive law 反射律
reflexive object 再帰目的語
reflexive opposition 反射的な反対[抵抗]
reflexive opposition to ?に対する反射的な反対[抵抗]
reflexive relation 反射関係
reflexive response 反射的反応
reflexively【副】反射的に、ピクッと
reflexively cover one's ears 〔大きな音に対して〕思わず耳を塞ぐ
reflexively resist 反射的に抵抗[反撃・反抗]する
contract reflexively 〔筋肉などが〕反射的に収縮する
respond reflexively to ?に対して反射的に反応する
But the problem with being clever and original in software design is that it gets to be a habit -- you start reflexively making things cute and complicated when you should be keeping them robust and simple.
でもソフトの設計で、小利口で独創的になることの問題点は、それが習慣になってしまうことだ。 -- 堅牢でシンプルにしておかなきゃダメなのに、反射的にそれを媚びた複雑なものにしてしまいがちになる。
IRS (Individual Review System) involves oral training with one instructor, enabling students to reproduce all the words and phrases introduced in the previous lesson at the same speed as native Japanese speakers in order to get students using them reflexively in relevant situations.
生徒が学習した語彙やフレーズを、ネイティブの日本人と同じスピードで、実際の場面の中で反射的に、より自然に使えるようにするマンツーマン指導の口頭トレーニング、これがIRS(個人復習システム)だ。
????
で、この小熊さんの本には再帰性について、以下のような記述もある。
再帰性の増大は、誰にも不安定をもたらしますが、恵まれない人びとへの打撃のほうが大きくなります。かつて貧しい人びとは、共同体や家族の相互扶助で、経済的貧しさをカバー(略)。あるいは、自分がつちかってきた仕事や技術や生き方への誇りで、心理的貧しさを補ったりしていました。 しかし、再帰性が増大し、選択可能性と視線にさらされると、それらが揺らいでいきます。相互扶助も誇りも失って、無限の選択可能性のなかに放りだされ、情報収集能力と貨幣なしにはやっていけない状態に追こまれていきます。386p
どうも、この「再帰」っていう訳語が悪いんじゃないかと思えてしまうのだが、ま、ここで書かれてることはなんとなくわかるような気がする。で、再帰性については、もう、これ以上の理解は難しそうなので、この先に進む。
ともあれ、この先の小熊さんによるギデンズの従来の右派と左派の限界に関する記述の紹介が少しだけ面白かったのだが、やっぱりしっくりこないなぁ。
ギデンズの定義だと、左派というのは、主体の理性を信じて、客体の操作可能性を信じています。計画経済や福祉政策など、政府が適切な政策をやれば、適切に社会を設計できるという考え方です。 それにたいし右派は、客体の絶対性と、主体の限界を信じています。伝統に帰れ。伝統はゆるぎない。あるいは市場にまかせろ。人間の理性はあてにならない。だから伝統の前に、市場の判定の前に、謙虚に従うべきだという考え方です。 もっとも日本では、保守政党が「所得倍増計画」や乱開発をあyったり、革新政党が自然保護を唱えたりしたので、必ずしもこの定義があてはまりません。386-7p
欧米のことはよくわからないのだが、いまは自然保護についは左派も主張しているのではないか。
あと、「左派が客体の操作可能性を信じている」というのも時代遅れな感じがする。ギデンズがこれをいう前にはそうだったのかどうか。
そもそも左派ってなんなんだろうって話にもなるんだけど。