前原元外相への献金――在日を「外国人」と呼ぶことについて
山口響
2011年3月
前原誠司外務大臣が、政治資金規正法で禁じられた「外国人」からの政治献金を受けたとの理由で、3月6日に辞任した。
形式的に見れば違法とはいえ、受け取った額はわずか25万円。こんな重箱の隅をつつくようなことで、一国の外相が職を辞し、マス「ゴミ」は政局がらみで大騒ぎしている。この国の政治は異常だという他はない。
しかし、これから私が書くのは、前原擁護の文章ではない。沖縄に新たな基地を押し付けようとしていること、中国の「脅威」をさかんに煽っていることなど、政治家としての前原の考え方は気に入らないことだらけだ。それでもなお、今回のような理由で前原がやめるべきだとは思えない。
前原が辞任に追い込まれたのは、「外国人」から違法に献金を受けたからだった。しかし、その「外国人」というのは、韓国籍の在日朝鮮人女性で、72才。現在48才の前原が中2のときから知り合いだったというから、おそらく、少なくとも30年以上は日本に住んでいるのだろう。年齢からすれば、もしかすると日本生まれであるかもしれないし、すでに日本に移り住んでいた親族を頼って、戦後に日本に移住してきたのかもしれない。
私たちが考えなくてはならないのは、なぜ彼女が韓国籍を持ち、「外国人」として扱われているのか、という根本的な問題だ。もし、朝鮮人の親を持つ子として日本で生まれたか、あるいは戦前・戦中に親とともに日本に移住してきていたとすれば、朝鮮人である彼女は日本国籍を持っていたはずである。しかし、占領下の1947年には外国人登録令によって「朝鮮人は当分の間外国人とみなす」とされ、1952年にサンフランシスコ講和条約が結ばれた際に、朝鮮人は日本国籍を一方的に剥奪された。戦争の時には朝鮮人を日本国籍者としてさんざん利用しておきながら、戦後になると急に「外国人」としてやっかい払いしたのである。彼女はこうして日本国籍を失ったのかもしれない。
もし彼女が戦後の日本移住組である場合でも、少なくとも30年以上は日本に住んでいるはず。そのような人を「外国人」として扱ってしまうことには違和感を覚えざるをえない。
いずれの場合にせよ、彼女を「外国人」と名指す発想は、在日朝鮮人の置かれている歴史的経緯をまったく無視したものだ。
私は別に、在日朝鮮人を特別扱いしろ、と言っているのではないし、それだけ長く住んでいるなら日本に帰化すればいい、と言っているのでもない。同じ国に定住する人間として、どのような国籍を持っているかに関わりなく、日本国籍者と同等の権利があるべきだと言いたいだけだ。
世界のほとんどの場所が主権国家によって分割されている以上、当面の間は「国籍」というものと私たちは付き合っていかねばならないだろう。しかし、それでもなお、国籍と市民権とを関連づけないようにはできないだろうか。つまり、一定の地理的領域に定住する住民であれば、どんな国籍を持っているかに関わらず、市民・住民として同等の権利が与えられる、そんな社会は考えられないだろうか。
今回のケースで言えば、前原に献金をした焼肉屋のおばちゃんは、ただ「韓国籍」保有者だったというだけの理由で、自分の支持する政治家に献金する権利を奪われた。しかし、日本に一定期間以上定住している人間を、歴史的経緯も踏まえないまま、「外国人」であるという形式的な理由で差別することが許されてよいはずがない。
おそらく前原は、「クリーンな政治家」というイメージを守るために、辞任したつもりなのだろう。献金をした女性に前原は「おかあさん、ごめん。迷惑かけて」と電話したという(京都新聞電子版、2011年3月6日)。
しかし、謝るぐらいなら、本当は辞めてはいけなかった。「『外国人』といっても、同じ人間として日本で生きている人、私の古くからの知り合いだ。そんな人から献金をもらって何が悪い」――たとえ違法行為であっても、前原はそう開き直るべきだった。前原は、辞めることによって、在日朝鮮人が差別されるべき存在であることを認めてしまったに等しいのである。
山口響
2011年3月
前原誠司外務大臣が、政治資金規正法で禁じられた「外国人」からの政治献金を受けたとの理由で、3月6日に辞任した。
形式的に見れば違法とはいえ、受け取った額はわずか25万円。こんな重箱の隅をつつくようなことで、一国の外相が職を辞し、マス「ゴミ」は政局がらみで大騒ぎしている。この国の政治は異常だという他はない。
しかし、これから私が書くのは、前原擁護の文章ではない。沖縄に新たな基地を押し付けようとしていること、中国の「脅威」をさかんに煽っていることなど、政治家としての前原の考え方は気に入らないことだらけだ。それでもなお、今回のような理由で前原がやめるべきだとは思えない。
前原が辞任に追い込まれたのは、「外国人」から違法に献金を受けたからだった。しかし、その「外国人」というのは、韓国籍の在日朝鮮人女性で、72才。現在48才の前原が中2のときから知り合いだったというから、おそらく、少なくとも30年以上は日本に住んでいるのだろう。年齢からすれば、もしかすると日本生まれであるかもしれないし、すでに日本に移り住んでいた親族を頼って、戦後に日本に移住してきたのかもしれない。
私たちが考えなくてはならないのは、なぜ彼女が韓国籍を持ち、「外国人」として扱われているのか、という根本的な問題だ。もし、朝鮮人の親を持つ子として日本で生まれたか、あるいは戦前・戦中に親とともに日本に移住してきていたとすれば、朝鮮人である彼女は日本国籍を持っていたはずである。しかし、占領下の1947年には外国人登録令によって「朝鮮人は当分の間外国人とみなす」とされ、1952年にサンフランシスコ講和条約が結ばれた際に、朝鮮人は日本国籍を一方的に剥奪された。戦争の時には朝鮮人を日本国籍者としてさんざん利用しておきながら、戦後になると急に「外国人」としてやっかい払いしたのである。彼女はこうして日本国籍を失ったのかもしれない。
もし彼女が戦後の日本移住組である場合でも、少なくとも30年以上は日本に住んでいるはず。そのような人を「外国人」として扱ってしまうことには違和感を覚えざるをえない。
いずれの場合にせよ、彼女を「外国人」と名指す発想は、在日朝鮮人の置かれている歴史的経緯をまったく無視したものだ。
私は別に、在日朝鮮人を特別扱いしろ、と言っているのではないし、それだけ長く住んでいるなら日本に帰化すればいい、と言っているのでもない。同じ国に定住する人間として、どのような国籍を持っているかに関わりなく、日本国籍者と同等の権利があるべきだと言いたいだけだ。
世界のほとんどの場所が主権国家によって分割されている以上、当面の間は「国籍」というものと私たちは付き合っていかねばならないだろう。しかし、それでもなお、国籍と市民権とを関連づけないようにはできないだろうか。つまり、一定の地理的領域に定住する住民であれば、どんな国籍を持っているかに関わらず、市民・住民として同等の権利が与えられる、そんな社会は考えられないだろうか。
今回のケースで言えば、前原に献金をした焼肉屋のおばちゃんは、ただ「韓国籍」保有者だったというだけの理由で、自分の支持する政治家に献金する権利を奪われた。しかし、日本に一定期間以上定住している人間を、歴史的経緯も踏まえないまま、「外国人」であるという形式的な理由で差別することが許されてよいはずがない。
おそらく前原は、「クリーンな政治家」というイメージを守るために、辞任したつもりなのだろう。献金をした女性に前原は「おかあさん、ごめん。迷惑かけて」と電話したという(京都新聞電子版、2011年3月6日)。
しかし、謝るぐらいなら、本当は辞めてはいけなかった。「『外国人』といっても、同じ人間として日本で生きている人、私の古くからの知り合いだ。そんな人から献金をもらって何が悪い」――たとえ違法行為であっても、前原はそう開き直るべきだった。前原は、辞めることによって、在日朝鮮人が差別されるべき存在であることを認めてしまったに等しいのである。