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ドル没落の最終章か――米国債格下げと超円高

白川真澄


2011年8月21日

◆リーマン・ショックから3年、悪夢の再来

 リーマン・ショックから3年が経とうとしている。世界経済は、各国政府の大規模な財政出動と中国など新興国の高い経済成長の回復に牽引されて危機を乗り越え、景気回復の道を歩んできたかに見えた(世界経済の成長率は2009年がマイナス0.6%、2010年は3.9%に回復)。未曽有の金融危機と世界的大不況という悪夢は、忘却の彼方に押しやられつつあった。

 だがこの夏、悪夢は突如として蘇った。史上はじめて米国債が格下げされ、ドルの信認は根底から失われてドル安・ユーロ安と超円高がとまらない。世界全体が激しい同時株安に見舞われ、株式時価総額は4月末から8兆ドル強(約650兆円)、14%も減少した。今回の危機の引き金を引いたのは、3年前の民間金融機関の金融商品(ハイリスク・ハイリターンのサブプライムローン証券化商品)の価格暴落ではなかった。国債というもっとも安全な債券に対する不信と不安が引き金となった。膨れ上がった政府債務を背景にして、国債の元利不払い(債務不履行、デフォルト)の観測が流れ、国債価格の暴落や格付け引き下げへの不安が一挙に広がったのである。

 リーマン・ショックによる危機を乗り切るために、米国をはじめ各国政府は大がかりな財政支出を行ない、金融機関を救済した。その結果、各国の財政赤字は急速に膨らみ、巨額の国家債務が積み上げられた。それは債務不履行への不安をかき立て、財政赤字の大きい国の国債への不信が表面化した。

 2009年の秋からギリシャがその標的にされ、国債の相次ぐ格下げと国債価格の暴落が起こった。ギリシャ危機は、ユーロ圏を揺さぶり続けてきた。EUによる2度の支援策の決定(2010年6月と2011年7月、合計2690億ユーロ)にもかかわらず、債務の一部不履行は確実と見られ、ギリシャ国債を抱える欧州の銀行が大きな損失を出した。同時に、ポルトガル、アイルランド、さらにスペイン、イタリアの財政危機が次々に表面化し、スペインとイタリアの国債の金利(10年物の利回り)は6%台に跳ね上がった。赤字を減らそうと緊縮財政を強行すれば、ギリシャに続いてイギリスでも若者の大規模な暴動が勃発する。フランスにまで飛び火した財政危機は、欧州全体を覆っている。

 しかし、今回の危機の特徴は、国家債務への不信が米国に向けられたことである。米国債はもっとも安全な資産として世界中でもっとも大量に保有されている。その米国債が債務不履行に陥る可能性が発生し、格付けの引き下げと国債価格の暴落を招くのではないかという観測が流れた。もし、そういう事態が起これば、米国債を大量に保有している金融機関だけではなく、それを外貨準備として保有する各国政府は大損失をこうむることになる。米国債の3割近くは海外諸国が保有していて、中国の1.16兆ドルを筆頭にして日本の0.91兆ドル、イギリスの0.35兆ドルなど計4.51兆ドルに上る(2011年5月)。中国の場合、米国債保有額は外貨準備の3分の1を占めるまでになっている。

 3年前にはハイリスク・ハイリターンの金融商品を大量に抱えていたことによって資産価値の暴落と金融危機(金融機関どうしの資金のやりとり停止)に見舞われたが、いまやもっとも安全とされていた米国債を保有していたためにまったく同じ事態に見舞われる。世界中の金融機関と政府が背筋を凍らせたのも無理はない。

◆史上初の米国債の格下げ

 オバマ政権は、リーマン・ショックを乗り切るために7870億ドル(約62兆円)という巨額の財政出動を行なった。その結果、財政赤字は急激に膨らみ、債務残高は2008年度の10兆ドルから2010年度には13兆ドルに増えた。今年5月には、債務上限と定められている14兆2900億ドル(約1100兆円)に達した。この上限を引き上げないと、借り換えのために新しく国債を発行することができない。ところが、債務上限の引き上げをめぐる大統領と議会共和党の交渉が長引いてしまうという想定外の事態が生じた。党内の「茶会」グループの強硬な増税反対論に突き上げられて、共和党が妥協に応じなかったからである。

 8月2日の期限までに交渉が妥結しなければ、新規の借り入れが不可能になるから米国債の元利払いができなくなる。米国は債務不履行に陥るか、トリプルA(AAA)という最上級の格付けを失い、米国債の暴落が生じる。金融機関も政府も巨額の損失を出して金融市場は大混乱に陥り、ドルへの信認は地に堕ちる。こういう危機のシナリオが現実味をおびて間近に迫った。

 7月下旬からはドルが売られて円が買われ、円高が急激に進むという形でドルへの信用失墜が早くも顕在化した。同時に、世界的な同時株安が始まった。

 7月31日、オバマと共和党は、2012年末まで債務上限を2.1兆ドル引き上げる代わりに今後10年で財政赤字2.4兆ドルを削減するという内容で合意した(8月2日に法案成立)。債務不履行はぎりぎりのところで回避され、格付け会社ムーディーズは米国債を最上級で維持した。

 しかし、8月5日、S&P(スタンダード・アンド・プアーズ)は、ついに米国債引き下げに踏み切った。1941年にトリプルAに格付けして以来はじめて、ダブルAプラス(AA+)に引き下げた。4兆ドルの財政赤字削減が必要なのに、2.4兆ドルの削減目標にとどまったことを格下げの理由とし、さらに追加の格下げの可能性があると表明した。

 同時に世界的な株安が続き、ドル安・円高が進行した。1ヶ月間に、ニューヨーク、東京、ロンドンの株式市場では株価は約1割下落した。日経平均株価は、1万2000円台からあっという間に9000円台を割り込んだ。円は1ドル=80円台を割り込んで、70円台に突入した。

 日本政府と日銀は円売りドル買いの介入を実施し(4日)、G7の緊急協議が協調行動への意思表示を行ない(8日)、欧州中央銀行はイタリアとスペインの国債買い入れに踏み切ったが、世界同時株安とドル安・ユーロ安・円高の流れは変わらなかった。政府・日銀の為替介入は4.5兆円の規模であったが、円とドルの一日の取引は50兆円とも言われ、コップ一杯の水にインク一滴をたらすようなもので、円高にブレーキをかける効果はほとんどなかった。ドルへの不信がそれほど強いということである。

 財政赤字で見ると、先進国で最悪なのは日本である。日本の政府債務残高は943兆円、IMFの評価では1140兆円と対GDP比220%に達する(2010年度)。国債格付けはAAマイナスと、上から4番目の低さだ。国債格付けCCというギリシャでさえ、政府債務は対GDP比142%であり、イタリアは119%、米国は91%である。その日本の円が買われるのは、日本国債の95%が国内で保有されていて投機マネーの対象になりにくい、日本が経常収支黒字国ということで、ドルやユーロよりも「相対的に安全」であると見なされているからだ。

 「相対的に安全」という点では、米国債が格下げによる価格の下落を免れたこともそうである。格下げ後のNY債券市場で米国債の金利(利回り)は2.31%に低下し、2年7か月ぶりの低い水準になった(8日)。大幅な株安が続くなかで、投資家の資金が米国債の買いに向かったのである。皮肉にも株安のおかげで、格下げされた米国債が「相対的に安全」な資産と見なされたわけである。

 しかし、米国債への信頼が回復する見通しは何もない。むしろ巨額の債務を抱えつづけたまま、さらなる国債格下げの可能性がある。政府債務の削減のために増税策をとろうとしても議会で「茶会」グループの激しい抵抗に遭うし、税収増をもたらすはずの景気回復の前途には暗雲がたれこめている。景気回復のために財政出動に頼ることはもはや不可能であり、金融緩和策にたよるしか手がない。FRBは、実質ゼロ金利政策を2013年半ばまで続けることを決めたが(9日)、投資や雇用が増える効果はないだろう(日本が陥ってきたのと同じ「流動性の罠」)。これによってドルがさらに世界に溢れだし、日米間の金利差も縮まり、ドル離れがいっそう進行するだろう。

◆基軸通貨なき世界へ

 私たちの前には、リーマン・ショックから今回の経済危機を貫く不可逆的な流れがくっきりと姿を現わしている。それは、基軸通貨ドルの没落ということである。

 1971年のニクソン・ショック(金とドルの交換停止)以降、米国はドルをたれ流す政策をとりつづけ、世界中に過剰なドルが溢れてきた。これを背景にして、金融経済の膨張と暴走が出現し、グローバル資本主義は金融資本主義へと変質してきた。過剰になったドルの価値の低下にもかかわらず、世界最大の債務国の通貨であるドルが基軸通貨の地位を長らく維持してきた。

 それは、ドルに代わる基軸通貨を見つけ出せなかったからだが、同時にドルが基軸通貨の地位を保つための仕組みが成立していたからでもあった。その仕組みとは、日本や中国や産油国をはじめ世界中から大量のドル資金が米国に還流する仕組みであった。つまり、日本も中国も対米輸出で稼いだ巨額の経常収支黒字を米国にドル資産の形で再投資した。これによって、米国は、ドル不信から来るドル暴落を免れることができた。

 米国に再投資された資金は、第一に、証券会社(投資銀行)や銀行の手で金融派生商品への投資や消費者ローンの貸出に運用されて大きな利益を上げ、一大ブームが作りだされた。その典型が、格付け会社によって最優良とされたサブプライムローン証券化商品への投資であった。米国は、「世界の金融センター」、「世界の投資銀行」となることによって、ドルの地位を保った。だが、リーマン・ショックはこのブームに終止符を打った。米国は「世界の金融センター」、「世界の投資銀行」の地位を失った。

 リーマン・ショックへの対応策として、米国が財政出動と金融緩和を通じて投入した巨額の資金は、過剰なマネーとして世界に溢れだした。世界の金融市場に出回っているマネー量を測るワールドダラーは、4.5兆ドルに達し(2010年10月)、リーマン・ショック前の2倍に膨らんでいる。このマネーは、いまは中国など新興国に流入して不動産バブル、食料品を対象にした投機、金価格の異常な高騰を引き起こしている。そして、財政が悪化した国の国債を狙い撃ちにした投機に向かっているのである。

 ドルが基軸通貨の地位を保つためには米国への資金還流の仕組みが作動していることが必要だが、その二つ目の仕組みは、金利は低いが安全な米国債への投資であった。すでに見たように、中国をはじめ海外諸国は4.51兆ドルという巨額の米国債を保有している。中国は繰り返しドル基軸体制の見直しを要求する一方で、資産としてのドル価値の維持に協力せざるをえなかった(最近でも、習近平とバイデンは、米国債の安全の保証と引き換えに購入継続で合意した)。

 その米国債に債務不履行の可能性が生じ、格付けが引き下げられた。国債価格の下落はいったんは回避されたが、下落がいつ起こっても不思議ではないことを全世界に告げたのである。このことは、ドルへの信認を支えていた最後の砦が崩れつつあることを意味する。各国政府の外貨準備に占めるドルの保有割合は、すでに10年前の72.3%から60.7%に低下してきた(2011年3月、なおユーロの保有割合は26.6%、円のそれは3.8%)。米国債の信用の失墜は、この傾向をいっそう加速するにちがいない。

 こうして、ドルは、基軸通貨の地位を保つための仕組みと条件を最終的に失いつつある。だが、代わってユーロや中国の元が基軸通貨の地位に就くこともありえない。ドルは当分の間、ドルに代わる基軸通貨がないという、ただそれだけの事情によって退位せず、基軸通貨のように振る舞うだろう。それは、グローバル資本主義を極度に不安定なものにする。世界は、基軸通貨なき世界に入りこみつつあるのである。グローバル資本主義が国際的な協力によって新しい共通通貨を創設することは、不可能なことである。

◆超円高時代の日本経済

 ドルへの不信は、ユーロへの不信と相まって、世界のマネーを円買いに向かわせている。最悪の財政赤字を抱えている上に3・11によってマイナス成長に陥った日本の円が、「消去法」的に安全と見なされて資金を引きつけている。19日には、1ドル=76円台を一時的にであれ割り込み、戦後最高水準の円高が出現した。

 政府債務の膨張が国債への不信を募らせて国債価格の下落を招き、金融機関に損失を発生させるという現在の危機のメカニズム(債務ショック)からすれば、日本国債こそ売りの対象になる危険がもっとも大きいはずだ。しかし、その9割以上が国内で保有されていることに加えて、銀行は、経済停滞が長引き企業の投資意欲が低下するなかで貸出先を見い出せず、ひたすら国債を買い続けている。その結果、国債価格は安定し、金利(利回り)は1%を越える程度という世界的にもっとも低い水準にとどまっている。

 そして、米国債の格下げ、米国の金融緩和策による日米間の金利差の縮小、ユーロ圏の財政危機、世界同時株安といった要因は、円高を推進し長期化させる。

 この超円高は、輸出に依存する製造業を直撃している。自動車や電機など輸出部門のグローバル企業は、生産拠点の海外移転を拡大しつつある。製造業の分野では、就業者数は約1000万人と10年前から200万人も減少しているが、雇用の縮小がいっそう加速することは避けられない。

 リーマン・ショックは、2002年?06年の日本の景気回復をもたらした輸出依存型の経済成長路線を挫折させ、経済のあり方の根本的な転換を迫った。しかし、その後も、新興国にシフトした輸出=海外市場の拡大に依存した経済成長をめざすという路線が、いぜんとして支配的な路線となってきた。

 しかし、1ドル=80円台の為替レートを想定していた輸出主導型の経済成長路線は、1ドル=70円台という超円高時代の到来によって破綻しつつある。さらに、米国が景気減速に陥り、頼みの新興国も投機マネーの流入によるインフレに見舞われ、金融引き締めによる経済成長のダウンは必至と見られている。世界経済の不安定さがかつてなく増すなかで、輸出依存型の経済成長路線からの転換は待ったなしの課題である。

 7月16日付けの朝日新聞「経済気象台」の論者は、次のように指摘している。「輸出期待論こそが、日本経済の自立を阻み、脆弱性を高めている」。「輸出に依存する日本にとって、世界経済の変調は不確実性をもたらし、大きな悪影響となる可能性が高い」。コスト削減による「輸出への過度の傾斜が、内需の回復力を弱めている」。日本経済は、「内需が重要な役割を果たす」「自立型成長モデルを構築すべき」だと。

 超円高時代に求められるのは、医療・介護・子育てのサービスの拡充、自然エネルギーの開発・普及、農林水産業の再生といった分野で雇用創出と需要拡大を実現する経済の構築である。私たちは、「経済気象台」の論者と違って、その経済が経済成長をもたらすかどうかはどうでもよいことだと考える「脱成長」の立場に立つ。しかし、脱成長経済はまちがいなく内需主導型の経済と重なり合う。同時に、脱成長の立場から、自己制御能力を失って極度に不安定化しているグローバル資本主義に代わるオルタナティブ(暴走するマネーの制御と社会への埋め戻し、新しい国際的な共通通貨の創設といったことを含む)を大胆に論じ構想することが必要とされている。
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