メニュー  >  【つるたまさひで読書メモ】 『社会を変えるには』小熊英二著 第6回
【つるたまさひで読書メモ】
『社会を変えるには』小熊英二著
第6回


7章のタイトルは本のタイトルと同じで「社会を変えるには」この最初の方で、【現代において「社会を変える」とは】という問いが提出される。議会で多数派をとることが社会を変えることではないとした上で、現代の誰しもが共有している感覚として、3つを提起する。
1、「誰もが『自由』になってきた」
2、「誰も自分のいうことを聞かなくなってきた」
3、「自分はないがしろにされている」
これらの感覚は首相も高級官僚も非正規労働者も共有されているのだから。ここを変えれば社会は変わったことになる、というのが小熊さんの主張(434p)なのだが、果たしてほんとうにそうか。

まず、その二つの前提が気になる。

1、「議会で多数を取ることではない」ということについて、確かに議会で多数派をとることはすべてではなく、そのことの意味は相対的に低下していると思うのだが、だからといって、無視できるものでもない。という意味で、この切り捨て方は気になる。
2、「この3つの感覚を本当に誰もが共有しているといえるのか」という問題。

まず一つ目の「誰もが『自由』になってきた」という話だが、その時間軸で考えるか、何の自由について考えるか、ということを抜きにこれだけ言われてもなぁ?と思う。現在の第二次安倍政権、自民党憲法草案という話でいえば、それは個人にとってのさまざまな自由を制限する方向に向いているといえるだろう。この局面で「『自由』になっているという感覚」を多くの人が変えて、不自由になっていると気づくことを指しているとすれば、それは面白い変化だと思うのだが、この本が書かれたのは安倍政権の成立前。さらにこの「『自由』になってきた」という感覚が肯定的に重要な場合もある。例えば、参加の機会やさまざまな機会に自由に参加して自分の思っていることを言っていいし、デモにも行っていいし、NPOや社会運動に参加するのも自由になってきた、という感覚はとても大切で、ここを変えることは、社会を変えるということの逆に向かう話だということでもある。

二つ目の「誰も自分のいうことを聞かなくなってきた」という感覚を変えるというのもわからない。これも「なってきた」という時間軸をどうとるか、という問題でもあり、あと「聞いてもらえない」という感覚を前提にして、もっと聞かせるように、もっと参加し、発言しよう、という風につながる回路だってあるはず。

三つ目の「ないがしろにされている」という感覚も同様で、その感覚を前提にしながら、ないがしろにされないためにどうしようという行動のモチベーションにもなりえるのではないか。「社会が変わった」というのは、この3つの感覚が変わったということではなく、これらの感覚を前提にしながら、そういう現状はあるが、それでも参加すれば、少しはいい方向に変化するという感覚を持てるかどうか、ではないだろうか。そういう感覚は上記3つの感覚が変わらなくても、ありえるのだと思う。

そして次の【現代日本の「格差」意識】という節では、現代日本語の「格差」というのは、その怨嗟の対象が大金持ちよりも、小さな既得権者に向かいがち、ということなどを考えると、単に収入や財産の差のことだけでなく、「自分はないがしろにされている」という感覚の、日本社会の構造に即した表現だという(437-8p)。それはあるかも、と思った。

別の話になるが、この少し前には「在特会」が俎上に上がり、「ないがしろにされている」という感覚との関係で説明される。そして排外主義を掲げるポピュリズムの台頭が世界中で起きているというのが、排外主義の街頭行動と社会運動を分かつものは何か、という問いは立てられていない。

さらに次の節は【現代日本社会で「社会を変える」とは】という問いなのだが、ここでは思いつく限りでは、答えはひとつしかない、と小熊さんは書く。(この自信と小熊さんが1年休むことになったというその弱さがコインの裏表みたいなものじゃないかと一瞬思った)。

で、そのひとつのこととは

「自分はないがしろにされている」という感覚を足場に、動きをおこす。そこから対話と参加をうながし、社会構想を変え、「われわれ」を作る動きにつなげていくこと

と書く。そのテーマとして原発が格好のテーマだという。440p 確かに、これ、面白いかもしれない。ただ、動きをおこすための足場はもっといろいろあってもいいように思う。「われわれ」がどんな形で形成できるかわからない。きっとそれは単数ではないだろう。ただ、他者の存在を尊重する対話と参加のなかからしか、新しい社会構想は生まれないだろう。そして、複数の「われわれ」がつながる回路はきっとあるはずだ。遠大で遠回りかもしれないが、そこに希望を見出すしかないようにも思える。

そして、小熊さんは2011年からの脱原発デモで多くの人が望んでいたのは、以下の3つではないかと書く。441-2p

1、自分たちの安全を守る気もない政府が、自分たちをないがしろにし、既得権を得ている内輪だけで。すべてを決めるのは許せない
2、自分で考え、自分で声をあげられる社会を作りたい。自分の声がきちんと受け止められ、それによって変わっていく。そんな社会を作りたいということ。
3、無力感と屈辱を、ものを買い、電気を使ってまぎらわせていくような、そんな沈滞した生活はもうごめんだということ。その電気が、一部の人を肥え太らせ、多くの人の人生を狂わせていくような、そんなやり方で作られている社会は、もういやだということ。

以上3つを上げて、それは人間がいつの時代も抱いている、普遍的な思いだ、という。

1については間違いないだろう。2と3については、どれだけの人が、そんな望みに自覚的だったかというと、かなりあやしいと思う。この3つを同じように並列に並べるのはどうか。圧倒的な1の思いが人を動かしたのであって、2や3は後付けのような気がする。そして、連続して、そういう行動に参加する中で深められていくような思いなのではないかと。

次の節は『「いい幹事」より「鍋を囲む」』445pというもの。ただ、いい幹事がいないと鍋もなかなかうまく食えないような気もする。そこでの「いい幹事」はみんなの参加感を高めて、みんなの思いをそれぞれのメンバーがじゃましないように動ける幹事だ。そう、ファシリテータ型の幹事が必要とされているように思う。
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