メニュー  >  【ロング書評】反「反原発」論!?─「リアリティ」の内実について/松井 隆志
※この《ロング書評》は『運動〈経験〉』35号(反天皇制運動連絡会編集、2012年8月15日発行)に掲載されたものです。著者の了解を得て、転載します。
松井さんの書評を掲載するにあたって/つるたまさひで

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【ロング書評】
反「反原発」論!?─「リアリティ」の内実について
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    開沼博著『「フクシマ」論─原子力ムラはなぜ生まれたのか』
                                 (青土社、2011年)
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◆何が問題か

この問題を考えるすべての者が「原子力ムラの擁護」からはじめるべきです。……私たちはすでに常に、この原発を置く側としての「中央の原子力ムラ」と原発を置かれる「地方の原子力ムラ」という二つの原子力ムラを、無意識のうちに踏み台にしながら、今、パソコンでスマートフォンでこれを見、便利な生活をしている。今さらそれを一切合財無かったことにするというのはあまりに理想主義的である以上、私たちはこの二つの原子力ムラをメディア消費のネタとすることなく、擁護から出発することが必要なのです(*1)。

 この発言がもし原発推進派のものであれば、呆れて無視するだけだっただろう。しかし実際はそうでない。本稿がこれから検討する『「フクシマ」論』(以下「本書」)の著者・開沼博の発言だった点に、厄介な問題が存在する。

 もちろん「厄介」なのは発言内容自体ではない。誰の口から出ようと、「原子力ムラの擁護から出発することが必要」などという主張は寝言でしかない。問題は、東電福島原発が地域のアイデンティティの一部にまでなった歴史と構造を分析したはずの開沼が、レトリックを割り引いたとしても、「原子力ムラの擁護」などということをなぜ主張できてしまうのか、ということにある。そこに解くべき謎が存在する。

 「毎日出版文化賞」を受けるほど好評をもって受けいれられた本書の著者が、その発言力を生かして正面から反原発を唱えるよりも、反原発運動批判に熱心である(ように見える)のは大変奇妙だ。「原発御用学者リスト@ウィキ」というウェブサイトでは、開沼は「エア御用な人々」(利害関係がないのに結果的に「御用学者」と同じ振る舞いをする人。エアギターの「エア」に由来)に分類されている(*2)。レッテルはとりあえずどうでも良いとしても、先に引用した記事が出た頃から、反原発を支持する私の周囲の人たちからも、開沼の言葉に耳を傾けようというのではなく、批判ばかりが聞こえるようになった。

 念のため述べておけば、評者(松井)は開沼と面識があり、彼の「善意」については全く疑いを持っていない。だからこそ、この謎は解いておくべきだと、私は本稿を書くことに決めた。

 先の引用は、昨年七月時点のネット記事(インタビュー)であり、確かに反原発運動や世論がどう動くかわからない時期ではあった。だからあえて「過激」な物言いをしただけだと、好意的に受け取る人もいるかもしれない。そこで、つい最近同様にネット公開されているインタビュー記事からも開沼のスタンスを確認しよう。

あの運動[八〇年代の反原発運動]は、時間の経過とともにしぼんでいきました。理由はいろいろあります。あれだけやっても政治が動かなかったこともあれば、現実離れした陰謀論者が現れて、普通の人が冷めたこともある。そして今も同じことが反復されています。「原発は悪」と決めつけてそれに見合う都合のいい証拠を集めるだけではなく、もっと見るべきものを見て、聞くべき話を聞くべきです。……この運動は、このままでは近い将来にしぼんでいく。すでに“反原発マインド”を喚起するようなネタ─「大飯の再稼働」「福島第一原発4号機が崩れる」といった“燃料”が常に投下され続けない限り、維持できなくなっている。……3・11を経ても、複雑な社会システムは何も変わっていない。事実、立地地域では原発容認派候補が勝ち続け、政府・財界も姿勢を変えていない。それでも「一度は全原発が止まった!」と針小棒大に成果を叫び、喝采する。「代替案など出さなくていい」とか「集まって歩くだけでいい」とか、アツくてロマンチックなお話ですが、しょうもない開き直りをしている場合ではないんです(*3)。

 ほぼ一年経って、「原子力ムラの擁護」などという主張はこの記事では影を潜めている(逆に、一年前に主張したことを現在どう考えているのかという疑問が生じるが)。一方で今度は高揚する反原発運動に対する「また失敗する」という予言が持ち出される。チェルノブイリの際の日本の反原発運動がなぜ「失敗」したかについて、きちんとした分析があるのならばぜひそれは教えてもらいたいし、現在の運動をより力強くする秘訣があるならそれも知りたいと思う。しかし右の発言は、運動のダイナミズムを理解した上でのものとはとても思えない。たとえば、この一年の反原発運動なしには、再稼働を争点にすることすらできなかったと私には思える。だがそのことの評価もなく、反原発運動は以前も今も不十分だった、ということだけ述べる「予言」に価値はあるだろうか。

 「見るべきもの」や「聞くべきもの」とは何か、「複雑な社会システム」を変えるためにはどうすればいいか。確かに重要な問題は残っている。だが、なぜそれこそを主題にして論じられないのだろう。「原子力ムラの擁護」や反原発運動批判を語らなくても十分議論できるはずではないか。この間の開沼の言論への評者の疑問は、突き詰めればこの点に集約される。つまり、開沼の求めるものと現在の反原発の主張や運動は、両立させるべきものなのではないか。むしろ、開沼自身が具体的な処方箋を持たないがゆえに、反原発運動批判のトーンを上げるという心理が働いていないかどうか。

 とはいえ、ここでも開沼の言論への直接的な批判が問題なのではない。なぜ『「フクシマ」論』の著者がこのような発言をし得るのか、その筋道を追跡してみたい。特に、あからさまな原発推進論がほぼ駆逐された現状ゆえに、反「反原発」論はそれなりの位置を占める可能性は高く、その一つの典型として、きちんと解剖しておくのは意義あることだろう。

◆『「フクシマ」論』の論理

 先にも述べたように、本稿はここ一年の開沼の主張への批判を直接のテーマとするものではない。あくまで問題を源泉から断つことを目標とする。したがって、開沼の原点たる『「フクシマ」論』を俎上に載せる。

 まず本書の全体像を簡単に紹介しよう。

 序章と第一章から成る「第I部 前提」において、いわば全体の問題設定と方法論を議論している。

 続く第二章から第四章は「第II部 分析」であり、第二章は章タイトル通り「原子力ムラの現在」を説明している(なお、本書では「原子力ムラ」とは原発を受け入れている地域(住民)のことを意味し、「地方」である県よりも小さな単位を意味する。これに対して原発事故後に「原子力ムラ」と通称された原発推進側のネットワークは「〈原子力ムラ〉」と表記される)。そして第三章と第四章はそれぞれ、福島県あるいは「原子力ムラ」の歴史が記述される。ここで章の区切りとなっているのは、戦前/戦後ではなく、具体的な原発導入の前史とそれ以降であり、かつそれは高度成長期以前と以降の区切りとも重なるものとなっている。

 「第III部 考察」は残りの第五章から終章、そして補章である。第五章は前章までの歴史を「中央とムラの分離→接合→再分離」としてまとめた上で、その中央とムラのメディエーターとして「地方」(具体的には福島県)の政治家を捉え、その役割の変化を「ノイズメーカー→コラボレーター→ノイズメーカー」と先の図式と重ねて整理する。そして現在ではついに、メディエーターとしての「地方」の役割は消滅し、「原子力ムラが中央に自動的かつ自発的に服従するシステム」が完成したと述べる(この論点は後ほど改めて取り上げる)。第六章は、原発に見られる「排除・固定化と隠蔽のメカニズム」を、近代化の一般的な問題として図式化しようとしている。ここでも重要なのはメディエーターであり、それこそが切り離しつつ繋ぎ止める役割を果たしていることが指摘される。終章では「結論」としてそれまでの議論がまとめられる。

 そして最後に補章が来る。本書はもともと二〇一一年一月に提出された著者の修士論文であり、それに多少の加筆訂正をして出版となった。したがって補章は、本書全体の中ではやや異質な、「三・一一」以後の文章である。そして実はこの補章の時点で、前節で引用したような開沼の反「反原発」的言論は既に展開されている。開沼の意図をこの補章に即して改めて確認しておけば、次のようになろう。

 すなわち、現在の反原発の主張は「原子力ムラ」(立地地域)の「現実」を見落としており、それは原発に支えられてきた「彼らの生存の基盤を脅かす」点で「暴力にもなりかねない」。そして、「中央は原子力ムラを今もほっておきながら、大騒ぎしている」に過ぎない時点で、「これまで愚かにも一昔前と同じ過ちを幾度も繰り返してきた私たちの社会は、福島をもまた忘却していくことは確かだろう」。

 ともあれ、本書はこうした構成となっている。「修士論文」として見れば、たとえば第?部で近代化や(脱)植民地主義をめぐる先行研究をもっときちんとまとめるべきではないかなど、いくつかの難点を指摘できようが、本稿はとりあえずそうした形式的完成度には関心を持たない。しかし、議論の形式的な粗から、主張の内容的な歪みが生み出されているようにも思われる。以下では、いわば本書の「論理」を手がかりとして、三点にわたって批判的に検討してみたい。

(一)二項対立の罠

 本書を読んで違和感を持つのは、開沼の設定する乗り越え対象が、しばしば大変矮小な姿をとっていることであった。たとえば補章において、自らの「原子力との初めての出会い」の印象を次のように語る。

私たちは原子力を抱えるムラを「国土開発政策のもとで無理やり土地を取り上げられ危険なものを押し付けられて可哀相」と、あるいは「国の成長のため、地域の発展のために仕方ないんだ」と象徴化するだろう。しかし、実際にその地[六ケ所村]に行って感じたのは、そのような二項対立的言説が捉えきれない、ある種の宗教的とも言っていいような「幸福」なあり様だった。(三八二頁)

 開沼は至るところで、既存の二項対立的理解ではダメだということを述べる。もし既存の原発論がこのような二項対立でしかないのであれば、開沼の言う通りだ。そしてこの二項対立をあえて外そうとする中で見出した「原子力を『抱擁』するムラ」の姿(第三章)─たとえば原子力最中(モナカ)の存在など─は、本書の中で特に面白い部分である。

 だがここで二方向の疑問が浮かぶ。一つは、果たしてこれほど極端に「全くの犠牲者」像を想定する原発論が現在どれほど有力なのか。原発に限らず、地権者の切り崩しがそこで行われるのは常識であり、だとすれば「無理やり土地を取り上げられ」という理解も当然無条件には成立し得ない。ある種の「共犯」関係によって事態が進むことは既に前提的知識ではないのか。

 同時にもう一方で、開沼が想定する単純な二項対立が成り立たないとしても、それは二項対立的構造が無効であることの証拠とはならない。開沼は次のように述べている。

……「ムラの生の声」を中心に、状況を見ていくことによって、そこに単純な推進する側が想定しがちな「原発によって住民は豊かになって満足しているんだ」という見方、逆に反対する側が想定しがちな「原発は危険で立地地域に強引に押し付けられたもの」という見方のいずれとも違った、リアルな位相があらわれてくることになるだろう。(二七〇頁)


 「リアルな位相」という捉え方の問題については後で触れるが、仮に住民が何と言っていようとも、「原発は危険」で「立地地域に強引に押し付けられたもの」という大枠を否定し得るのだろうか。なるほど原発の危険性が十分周知されていない時期には、単なる産業誘致と同等に理解されたかもしれない。しかしそうした原子力=夢という刷り込み自体が、政府や電力会社の圧倒的な力によって形成されたこともまた事実ではないか。これは「反体制」の側が原子力批判を欠いていたことを免罪するものではない。だが、この間の「被爆から原発へ」の歴史検証において、正力や中曽根といった推進側の巧妙かつ大きな動きが指摘されるのもまた事実だ(そのことは本書も指摘はしているが)。

 開沼が積極的に二項対立図式の外側に出ようとし、「ムラ」の能動性を強調する結果、推進側と抵抗側の圧倒的な非対称性は、少なくとも「原子力ムラ」の具体的レベルにおいては後景に退くことになろう。たとえば先に「面白い」と書いた第三章は、「文化」の問題が優先される。しかし原子力を「抱擁」する文化の成立は、雇用やハコモノ等を考えても、明らかに原発マネーを前提にした、それなしに存続し得ないものだろう。そこには電気料金に由来する電力会社からの不透明な「寄付金」も含まれる。このカネの流れ自体に、原発をめぐる不正常な関係構造が表れている。「ムラ」の意識や文化も、この影響の中で論じなければ、「能動性」といったところで意義に乏しい(*4)。

 さらに二項対立を超えるように見えて、実は開沼自身がその枠に閉じ込められていることも少なくないようだ。その一つが先に触れた「リアル」の強調だ。開沼は旧来の議論の対立を両者とも否定する一方で、自らの主張を真の「リアリティ」の探求側へと位置づける。もちろん、単純にレッテルを貼ろうとする動きに警戒をするのは当然だ。しかし既存の解釈を否定するのであれば、より説得的な図式を提示する必要があるはずだ。リアリティは捉え切れない、圧倒的だといくら言ったところで、それは「レッテル対リアル」という抽象的二項対立を増殖させるだけだ。次の文章はその問題を露呈させている。

池の水面がいくら激しく波打っているように見えてもその池の水中に泳ぐ魚の日常が何も変わらないように、メディアや表面的な政治の動きがいくら激しいように見えても原子力ムラも沖縄も水中の秩序に閉じ込められたままだ。日に日に水かさは減り、汚濁が進んでいっているのだとしても、なかで泳ぐ魚はどうすることもできない。そこで求められるのは、水面の動きを上から観察して聞こえの良い解説をすることではなく、魚に寄り添いながら水中のあり様を描き出すことだ。(六五頁)


 「上から観察して」云々がレッテルを貼るだけの人々で、開沼自身は魚の「リアリティ」を求めるのだと言いたいのだろう。しかしこの部分を読んで評者は首をひねった。水かさや汚濁を改善するのに、なぜ「魚に寄り添って水中のあり様を描き出す」ことが必要なのか。むしろ「聞こえの良い解説」をも生かしつつ事態を解決すべく上からでも外からでも動くべきなのではないか。もちろんこれは比喩だ。開沼が表現に失敗しただけかもしれない。しかし、この引用文には、外からの観察に比べて魚に寄り添うことが無条件に正しく、それが本当に有益なことを引き出すか否かについてあまり関心を持っていないという開沼の「偏見」が表れていると読める。

(二)「近代」という概念

 二点目は、本書における「近代」という概念の問題である。

 そもそも原発立地地域を指す「原子力ムラ」の「ムラ」概念自体、「自然村」か地域自治体かという点で相当曖昧になっていると思えるが、それでもなぜわざわざ「ムラ」概念を採用したのかと言えば、ムラ=前近代的=「閉鎖的かつ硬直的な性質」という規定を求めたがゆえなのであろう。だが評者は、この規定には異論がある。

……この両者[二つの原子力ムラ]は「前近代の残余」として、つまり、それは戦時体制的な中央集権体制であり、地縁・血縁的な共同体をベースに成り立つムラの田舎性を根底に抱える存在としてあるのであり、そうであるがゆえに「近代の先端」[原子力]を自らの駆動のために欲している、ということだ。(二九四頁)

 中央の「〈原子力ムラ〉」も含めて、「閉鎖的かつ硬直的」だという性格規定までは賛同できても、しかしそれが「前近代」だと言われると、その大雑把な整理には留保をつけたくなる。しかもそれが「ムラの田舎性」ゆえに原子力を必然的に求めたのだとすると、これはほとんど近代の宿命となってしまう。

 確かに原子力にそのような性質がないとは言えない。しかし具体的に原発建設の問題に絞って言えば、その建設を断念させた地域もあるのだから、「ムラだから近代を求めた」なる必然論で説得されるわけにはいかない。

 そして「ムラ」の問題に限らず、本書が「近代」の問題へと抽象化されるにつれて、不変あるいは必然の含意が色濃くなってくる。

……ここで行いたいのは……戦争─成長、あるいは近代化という対象を一本の糸でつなぎながら、そこに浮かび上がる「変わらぬもの」を明らかにする作業をさらに進めることに他ならない。……私たちはその根底に沈み、忘却の彼方に眠る「変わらぬもの」をこそ見出すことに務めなければならない。(三七九頁)

 開沼はこう述べた上で、鳩山政権の普天間基地県外移設の挫折を、「変わらぬもの」の一例とする。確かにこれを、本土と沖縄の近代史の「不変とその暗部」として語ることは可能であろう。しかしそう指摘することがどんな意義をもたらすのか、開沼の議論からは全く定かではない。問題に即して、何が足かせとなっているのか(たとえば日米安保の問題)、誰が責任を負っているのか(政治家・官僚層の対米従属など)、そうした具体的分析へと進んでいかないのだ。

 原発問題に引き戻して言えば、開沼の「コロナイゼーション」をめぐる「思考実験」は、政府や東電といった責任主体を議論の舞台から退けることに貢献してしまっているとしか思えない。

(三)「統治のメカニズムの高度化」論の出口なし

 そして第三に、「近代」のみならず、原発問題における〈中央─地方─ムラ〉の図式においても、必然論=「出口なし」が誘導されている。

 先ほど第五章について、中央とムラの関係は、メディエーターとしての地方の役割がなくても「自動的かつ自発的な服従」を示すに至ったとまとめた。ここでのメディエーターとしての役割の消滅とは、具体的には、福島県前知事・佐藤栄佐久の原発政策への抵抗と失脚以降の事態を指している。

九〇年代以降、一方に経済成長の鈍化、他方に新自由主義的な政策があるなかで中央とムラの関係は新たな段階を迎える。確かに、地方の中央に対して自発的に貢献をしていく状況は今日も続いている。しかし、今日においては、[近代前半とは異なり]それが自動化していると言える。それは本書で「地方」としてきた、植民地政策でいうところのコラボレーター(協力者)の役割をしてきた中間集団が、ムラにとって必要ではなくなったということを示す。ここにおいてムラは自動的かつ自発的に服従する存在へと変化したと言える。原発をおきたい中央とおかれたいムラが共鳴し強固な原発維持の体制をつくったのだ。(三〇五頁)


 しかし開沼の説明を聞いても、なぜ佐藤前知事の反乱が生じたのか、うまく説明できていない。確かに新自由主義的政策のなかで中央とムラの関係は「新たな段階」を迎え、それは基本的に切り離しであったと言える。その中で短期的には、より強固かつ主体的に従属するという事態も見られただろう。だが、論理的に考えれば、それは早晩限界に達する。「自動的かつ自発的な服従」は控えめに言っても大変な軋轢や緊張を抱え込むこととなる。

 原発に即しても、このままのシステムが長く続くとは考えられない。事故自体が原発路線の「無理」の結果だと言えるが、仮にそれがなくとも、前述のとおり原発文化もまたマネーの産物なのであれば、それが滞れば途端にあちこちの亀裂が露呈せざるを得ないのだ。

 にもかかわらず開沼は、「統治システムの高度化」の最終段階(?)として「自動的かつ自発的な服従」の現在を位置づける。反原発運動に対しては、大胆な予言を躊躇しない開沼が、「統治システム」についてはその破綻の論理的可能性すら指摘しない理由は定かではない。いずれにせよ、原発がこの出口のない「統治システム」の産物だということになれば、反原発を唱えるのは安直極まりない輩だということになるのであろう。だが、これを脇道のない「高度化」と見ること自体が根拠薄弱なのだ。まして、原発事故は実際に起きてしまっている。開沼の言う福島県の「原子力ムラ」も県議会も、ほぼ完全に脱原発へと舵をきった。三・一一以後に「何も変わらない」とだけ診断する開沼の「リアル」はそれこそ怪しい。

◆反原発と責任追及の道

 開沼のような反「反原発」論を目にしたときに、思い浮かんだのは靖国神社擁護論であった。「戦争自体は悪かったとしても、兵士たちは家族のために戦っていたから侵略者じゃない」、「戦死者を犬死と言うな」、「靖国で会おうと言って死んでいったのだから、遺族が参拝するのは当然だ」等々、「当事者」の「リアリティ」を盾にとって正当化する議論。あるいは、そうした感情を踏まえる必要があるのだから、まずは自国の死者をきちんと悼む施設をつくるべきだという主張。開沼の議論はこれらに大変近いように感じられる。

……本書冒頭で掲げたような、自らのpositionを中心にして周縁たる原子力ムラを他者とする方法、すなわち、「過剰に危険を煽り立てる反対運動やジャーナリズムは正直言って迷惑」といわれるような原子力ムラを排除しつつ、固定化する方法からどれだけ逃れることが出来ているのか……(三五〇頁)

 目の前の「当事者」にどう話しかけるかという選択の余地はあるとしても、「リアリティ」を重視して、「英霊は立派だ」とか「反原発の情報は過剰だ」といった意見に同調する必要性など全くないはずだ。採るべきは、これらの人びとがどのような論理に囚われているのか、そして構造的にどのような境遇に置かれているのか、ということの探求であろう。いかに人びとが「靖国」に巻き込まれているのかを考えるのと同じように、地域の人びとが原発に巻き込まれている様を明らかにすることが重要だ。

 その分析と、そこからの脱出法と、そして反原発の主張・運動は、先にも述べたように対立的に語られる必然性など全くない。そして開沼が嫌うような、政府・東電といった「わかりやすい敵」の追及とも、両立し得るだろう。

 この点を考えるのに、高橋哲哉の福島論(『犠牲のシステム 福島・沖縄』)は参照する価値がある(ただし前述のような靖国論との重ね合わせは必ずしも明確ではない)。

 高橋は、福島そして沖縄を「犠牲のシステム」の対象として取り上げる。これは「近代」による排除と固定化を論じた開沼の議論と重なる部分がある。しかし重大な違いがある。高橋には具体的な責任論が伴っているのだ。

 高橋は誰にこの事故の責任があるかを列挙する中で、「地元住民の責任」という項すら立てている。そしてたとえば「飯舘村の住民でさえ、県民の一人としては、わずかであっても原発の利益を得てきてきたことは否定できない」と指摘する。もちろんこれは「一億総懺悔論」ではない。むしろ逆だ。責任はほぼ全ての人にある。それと同時に「責任にはその権限や立場に応じて軽重があり、また、その人が何をしてきたか……などに応じても違いがある」のだ。

 最も責任が重い者たちに向かってその責任追及を完遂することは、自分の責任を他人になすりつけることと同じではない。むしろ、二度と同じ過ちを繰り返さないため、あるいは自分の誤りを明確にするためにこそ、「犠牲のシステム」の切開とその責任追及を目指すのだ。

 私はこの間の官邸前行動で、「自分は騙されていた、馬鹿だった、だからその責任をとるために反対しに来た」という福島からの参加者のスピーチを聞いたことがある。あるいは、自分たちが何も知らなかった、考えてこなかったことの反省から、これまで運動と距離を置いていた人たちが大勢集まるようになっている。そうした人びとの集団の力こそが、放っておけば事故などなかったかのように原発を再稼働し、福島の被害を切り捨てようとしてきた政府・官僚の思惑を打ち破ろうとしている。

 何の矛盾も存在しないとは言えないが、少なくとも事故の「忘却」や福島の切り捨てを押し止めているのは、反原発の世論と運動ではないか。「リアリティ」を売り物にする開沼がその点でリアリティに乏しい議論をし続けるのは残念である。

 『「フクシマ」論』について批判的に検討してきたが、評者としては、開沼が最終的に目指すところと既存の反原発運動とは両立し得ると考えている。開沼によれば、「批判に対しては『確かにそうだな』と謙虚に地道に思考を積み重ねるしか、今の状況を打開する方法はない」そうだ(*5)。したがって不毛な対立を避けるために、開沼にはぜひとも、現在の大きな発言力を生かして、「自分はこのようにヨリ意味のある具体的な取り組みをしているから、それに協力して欲しい」という、二項対立に追い込まない呼びかけの仕方を選択して欲しいと願う。

*1 日刊SPA! 2011年7月4日付「現役東大院生が『原子力ムラ』を擁護!?」 http://nikkan-spa.jp/18902
*2 http://www47.atwiki.jp/goyo-gakusha/pages/863.html
*3 週プレNEWS 2012年7月19日付「デモや集会などの社会運動は本当に脱原発を後押しするか? 開沼博『“燃料”がなくなったら、今の反原発運動はしぼんでいく』」 http://wpb.shueisha.co.jp/2012/07/19/12732/
*4 ちなみに『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書』の開沼が担当した「第九章 「安全神話」の社会的背景」においては、「文化」よりも地域の財政問題をまっさきに取り上げており、その限りでは妥当な指摘になっている。
*5 *3と同じ。

参考文献
石田雄・開沼博、2012、「対談・『「フクシマ」論─原子力ムラはなぜ生まれたのか』をめぐって」(石田雄『安保と原発─命を脅かす二つの聖域を問う』唯学書房所収)
開沼博、2011、『「フクシマ」論─原子力ムラはなぜ生まれたのか』青土社
桜井勝延・開沼博、2012、『闘う市長─被災地から見えたこの国の真実』徳間書店
佐藤栄佐久・開沼博、2012、『地方の論理─フクシマから考える日本の未来』青土社
山下祐介・開沼博編、2012、『「原発避難」論─避難の実像からセカンドタウン、故郷再生まで』明石書店
高橋哲哉、2012、『犠牲のシステム 福島・沖縄』集英社新書
福島原発事故独立検証委員会、2012、『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書』ディスカヴァー・トゥエンティワン

[松井 隆志(まつい たかし)社会学]
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