【今月のお薦め/つるたまさひで】
肯定と否定の間を行ったり来たり
最初に少し古いけれども、大好きな本を紹介します。
「エンパワメントと人権」森田ゆり(解放出版社1998年)
エンパワメントという言葉を聞くことは少なくないかもしれません。エン+パワーだから、言葉通りの意味ではパワーをつけるという風になるのでしょうか。英語はよくわからないので、その話は置きます。
で、この本でエンパワメントとは何かということを、自らをエンパワメント信奉者と呼ぶ森田さんがとてもわかりやすい言葉で伝えてくれます。彼女が呼ぶエンパワメントとは何かという話を書きたいのですが、その前に日本で、この言葉がどのように使われているかということについて、彼女はこんな風に書いています。
===
最近ではエンパワメントが女性だけに適用される概念だと考えている人はさすがに少ないと思うのですが、「力をつける」ことだと思っている人は少なくないかもしれません。確かに結果として力がついているような状態は得られるから、力がつくことではあります。でも、「つけること」ではないらしいのです。上記の文章に続けて、彼女はこんな風に書いています。
===
あるいは別のところでは、こんな風に書いてます。
==適当な抜粋及び要約==
彼女の主張するエンパワメントの内容をおおよそ理解してもらえたでしょうか。「なんて、能天気な、米国的な」と感じる人もいるかもしれません。そういう側面もないわけじゃないとも感じつつも、こういうふうに得られる自己肯定感が、他者の意見を聞くことを可能にするとも思うのです。逆に言えば、こういう感覚が欠如すると、意見の違いを、そのままの形で認識することができず、意見の違いが相手の人格の否定につながったり、いろいろなことをちゃんと楽しめなかったり、人間関係をとても狭い範囲に閉じ込めたりするんじゃないか、とも思います。
従来型の日本の社会運動のなかでは、エンパワメントという言葉や概念が意識されることはそんなに多くはなかったと思います。そのあたりのことがもう少し運動の実践の中で見直されてもいいように感じています。この本の「はじめに」を読むと、どうやら森田さんもそういう運動状況に身をおいていたのかなぁと(面識はないのですが)想像できます。60年代後半から70年代にかけての話だと思うのですが、以下のように書いています。
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だから、70年代の後半に米国でこの言葉に出会い、その考えを実践する社会変革の動きに加わったときに自分が求めていた生き方に名前が与えられた思いがしたと森田さんは書いています。
同時に、「否!」と主張することも否定してはいません。ただ、それだけじゃなくて、世の中には実は美しく、すばらしいことがあることもまた事実で、そういう肯定のエネルギーをしっかり手につかみたいという強い思いだった、というのです。
現在も「伝統的な?」社会運動はまわりの社会に対して「否!」と主張することで成り立っているようにも思えます。それはそれで、とても大切なことのはずです。他方に、最近は「否!」と主張するようなスタイルを否定する運動のスタイルもあります。例えば、こんな風に主張している人がいます。
===
こう主張しているきくちゆみさんが「反対」という運動をすべて否定しているわけではないでしょうが、「反対」ということにちょっとネガティブな感覚を持っているようです。
で、肯定系の話を紹介した後で、ちょっと否定系の本を紹介。
ジョン・ホロウェイの
CHANGE THE WORLD WITHOUT TAKING POWER
The Meaning of Revolution Today
ぼくはこの本を2年前に某M先生の精読教室で読み始めました(ぼくは挫折したんですが)。この本、最近は日本語にもなっているようです。で、この日本語になったものを持ってないし、読んでないんですが、この本はこんな風に始まっています。ちょっと長いけど、その冒頭の部分を紹介します。(以下、つるたのあまりあてにならない訳)
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こっちもまた、嫌いじゃない話です。
自分のかけがえのなさを肯定することと、否定や不協和音から始めること、その両方が大切にされなくちゃいけないと思うし、それは一人の人間の中にあっても、共存が可能だと思うのです。
現実の社会運動の場面で、それぞれをうまくかみ合わせるのはそんなに容易ではないかも知れません。それを仮に「Yes!系の運動とNo!系の運動」と名づけてみました。この2つの運動の分類とほぼ重なる分類方法として、「レジスタンス(抵抗)とリニューアル(再生)という、異なるけれども関連し合う二つのアプローチ」という話をISEC(エコロジーと文化のための国際協会)という団体が発行しているブックレットで紹介しています。(日本語版は『食と農から暮らしを変える、社会を変える:行動のためのヒント集』以下のサイトから注文できます。
https://www.space-j.info/natumira/production/order.html
そこにはこんな風に書かれています。
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ぼくも、両方、ちゃんとなきゃだめだと思うのです。
ただ、単純ではないのは、Yes!系の運動は現状のシステムの補完物にされたりする危険と常に隣り合わせているし、他方でNo!系は、Yes!系のそういう部分を否定するあまりに、変革に向かう大切な萌芽を摘み取ってしまうこともあるかもしれないということです。
それぞれが違いを違いとして認識しつつ、間違っていると思うときは批判しあい(もちろん、それが人格の否定や暴力による意見の封じ込めにまで行かないように意識しながらですね)、社会運動を進めていくことが必要なんじゃないかと思うわけです。
P.S.
「な?んだ、そんなこと」っていうような結論で申し訳ないんですが、ま、ぼくが書くのはそんな程度です。(見上げた自己肯定感だ)
肯定と否定の間を行ったり来たり
最初に少し古いけれども、大好きな本を紹介します。
「エンパワメントと人権」森田ゆり(解放出版社1998年)
エンパワメントという言葉を聞くことは少なくないかもしれません。エン+パワーだから、言葉通りの意味ではパワーをつけるという風になるのでしょうか。英語はよくわからないので、その話は置きます。
で、この本でエンパワメントとは何かということを、自らをエンパワメント信奉者と呼ぶ森田さんがとてもわかりやすい言葉で伝えてくれます。彼女が呼ぶエンパワメントとは何かという話を書きたいのですが、その前に日本で、この言葉がどのように使われているかということについて、彼女はこんな風に書いています。
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・・・「エンパワメント」がどうも本来の意味とはかなり違って理解され、普及しつつあるようなのだった。(中略)、その意味を「女性たちが、さまざまな分野で積極的に力をつけていくことです」と説明している。===
エンパワメントとは「力をつける」ことではない。ましてや女性だけが・・・
最近ではエンパワメントが女性だけに適用される概念だと考えている人はさすがに少ないと思うのですが、「力をつける」ことだと思っている人は少なくないかもしれません。確かに結果として力がついているような状態は得られるから、力がつくことではあります。でも、「つけること」ではないらしいのです。上記の文章に続けて、彼女はこんな風に書いています。
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それは「人と人との関係のあり方だ。人と人との出会いのもち方なのである。おとなと子ども、女と男、女と女、わたしと障害者、あなたと老人、わたしとあなた、わたしとあなたが互いの内在する力にどう働きかけるかということなのだ。 …お互いがそれぞれに持つ力をいかに発揮し得るかという関係性なのだ 。14p===
あるいは別のところでは、こんな風に書いてます。
==適当な抜粋及び要約==
エンパワメントとは「力をつける」ということではない。それは外に力を求めて、努力して勉強してなにものかになっていくということではなく、自分の中にすでに豊かにある力に気づき、それにアクセスすること。==要約&抜粋ここまで==
なにものかにならなければ、何かをなしとげなければという未来志向の目的意識的な生き方は、裏返せば今の自分はだめだという自己否定と無力感を併せ持つ。
エンパワメントとはまずもって一人ひとりが自分の大切さ、かけがえのなさを信じる自己尊重から始まる、自己尊重の心は自分一人で持とうと意識して持てるものではない。まわりにあるがままのすばらしさを認めてくれる人が必要だ。無条件で自分を受け入れ、愛してくれる人が。
人ではなくスピリチュアリティがそれを培ってくれることも多い。神様でも仏様でも大地でも宇宙の心でも、あるいは友人でも、セラピストでも、家族でも、わたしという存在をあるがままに受け入れ受容してくれる存在との対話と交流がなければ、わたしたち人間は自分の大切さを心から信じることはできないようだ。
彼女の主張するエンパワメントの内容をおおよそ理解してもらえたでしょうか。「なんて、能天気な、米国的な」と感じる人もいるかもしれません。そういう側面もないわけじゃないとも感じつつも、こういうふうに得られる自己肯定感が、他者の意見を聞くことを可能にするとも思うのです。逆に言えば、こういう感覚が欠如すると、意見の違いを、そのままの形で認識することができず、意見の違いが相手の人格の否定につながったり、いろいろなことをちゃんと楽しめなかったり、人間関係をとても狭い範囲に閉じ込めたりするんじゃないか、とも思います。
従来型の日本の社会運動のなかでは、エンパワメントという言葉や概念が意識されることはそんなに多くはなかったと思います。そのあたりのことがもう少し運動の実践の中で見直されてもいいように感じています。この本の「はじめに」を読むと、どうやら森田さんもそういう運動状況に身をおいていたのかなぁと(面識はないのですが)想像できます。60年代後半から70年代にかけての話だと思うのですが、以下のように書いています。
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日本で過ごした10代、20代の私のアイデンティティは常にまわりの社会を「否!」と拒否することで成り立っていたように思う。20代で日本を出たのはそんな否定の心に加えて、もう一方の手に肯定の心を持ちたいという強いのどの乾きのような欲求に突き動かされ・・・===
だから、70年代の後半に米国でこの言葉に出会い、その考えを実践する社会変革の動きに加わったときに自分が求めていた生き方に名前が与えられた思いがしたと森田さんは書いています。
同時に、「否!」と主張することも否定してはいません。ただ、それだけじゃなくて、世の中には実は美しく、すばらしいことがあることもまた事実で、そういう肯定のエネルギーをしっかり手につかみたいという強い思いだった、というのです。
現在も「伝統的な?」社会運動はまわりの社会に対して「否!」と主張することで成り立っているようにも思えます。それはそれで、とても大切なことのはずです。他方に、最近は「否!」と主張するようなスタイルを否定する運動のスタイルもあります。例えば、こんな風に主張している人がいます。
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政府が何か悪いことをすると、「反対」とネガティブな態度になってしまいがち。「防衛省より平和省を」と言うとポジティブで新しいものを創る態度になります。===
http://www.occn.zaq.ne.jp/civilesociety/heiwasyokoen.htm
こう主張しているきくちゆみさんが「反対」という運動をすべて否定しているわけではないでしょうが、「反対」ということにちょっとネガティブな感覚を持っているようです。
で、肯定系の話を紹介した後で、ちょっと否定系の本を紹介。
ジョン・ホロウェイの
CHANGE THE WORLD WITHOUT TAKING POWER
The Meaning of Revolution Today
ぼくはこの本を2年前に某M先生の精読教室で読み始めました(ぼくは挫折したんですが)。この本、最近は日本語にもなっているようです。で、この日本語になったものを持ってないし、読んでないんですが、この本はこんな風に始まっています。ちょっと長いけど、その冒頭の部分を紹介します。(以下、つるたのあまりあてにならない訳)
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始まりは叫び。私たちは叫ぶ====
書いたり、読んだりするとき、その始まりが言葉ではなく、叫びだってことは忘れられがちだ。
省察の出発点は「反対」「否定」「闘争」。思想は激情から生まれるのであって、理性とか、存在の神秘について椅子にもたれかかって理性的に判断するとかいうような、伝統的な「考える人」のイメージから生まれるわけじゃない。
私たちは否定から、そして、不協和音からはじめよう。不協和音はいろんなあらわれかたをする。あいまいな内容のないつぶやき。フラストレーションの涙、激怒の叫び、・・・。
不協和音は経験からきている。その経験にこそ価値がある。時にそれは工場での搾取だったり、家庭内での抑圧だったり、事務所内でのストレスだったり、飢えや貧困だったり、国家による暴力や差別だったり、そういう直接的な経験。あるいは時には、テレビや新聞を通したあまり直接的ではない経験で、それらが 激しい感情をひきおこす。
・・・
たぶん、怒りを生むそれらのことは、個々別々の現象ではないと感じている。それぞれ関係しあってる。
the world is askew
世界は歪んでいる。
何かすごく恐ろしい経験にであったとき、その怖れに対して無力になって、言うんだ。「ありえない。これが本当だなんてありえない。でも、本当だってことは知ってる。本当ではない世界の本当だってことを。」
本当の世界は何に似てる?あいまいなイメージはあるよね。こんな風になってほしい。世界は公正で、人は人としてお互いにつながる、人じゃない物事としてつ ながるんじゃなくて。そして、その世界では自分の「生」を生きる。でも、いまある世界に何か根本的な悪があるってことを感じるために、本当の世界は何かっ ていうような絵は必要ないよね。世界が悪いって感じることは、必ずしもそこにユートピアのの絵を置くことじゃない。また「王子様がいつか来てくれる」って いうようなロマンチックな話でもない。どいうことかっていうと、いまはひどい状況だけど、ある日、本当の世界とか、約束の地だとか、ハッピーエンドがやっ てくるってことを必ずしも意味しないってことだ。現状のひどいと感じてる世界が廃棄されて、ハッピーエンドになるっていう約束は必要ない。
これがぼくたちの出発点:ぼくたちがひどいって感じる世界の拒否。ぼくたちが否定されてるって感じてる世界を否定すること。これがぼくたちがこだわりつづけないくちゃいけないことだ。
こっちもまた、嫌いじゃない話です。
自分のかけがえのなさを肯定することと、否定や不協和音から始めること、その両方が大切にされなくちゃいけないと思うし、それは一人の人間の中にあっても、共存が可能だと思うのです。
現実の社会運動の場面で、それぞれをうまくかみ合わせるのはそんなに容易ではないかも知れません。それを仮に「Yes!系の運動とNo!系の運動」と名づけてみました。この2つの運動の分類とほぼ重なる分類方法として、「レジスタンス(抵抗)とリニューアル(再生)という、異なるけれども関連し合う二つのアプローチ」という話をISEC(エコロジーと文化のための国際協会)という団体が発行しているブックレットで紹介しています。(日本語版は『食と農から暮らしを変える、社会を変える:行動のためのヒント集』以下のサイトから注文できます。
https://www.space-j.info/natumira/production/order.html
そこにはこんな風に書かれています。
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抵抗と再生====
社会活動には、レジスタンス(抵抗)とリニューアル(再生)という、異なるけれども関連し合う二つのアプローチが必要です。
危機感が膨らむ今日の状況の中で、勢いを増す破壊的な潮流をスローダウンさせ、いずれは停止させる目的をもった活動を、私たちは「レジスタンス(抵抗、反対運動)」という言葉で表現します。ここでいう活動には、郊外のショッピングモールの建設に反対することや、小規模な農業を営む農民の生活を脅かす政策に対するロビー活動(議員への働きかけ)、WTOや世界銀行、グローバリゼーションの推進派に対する抗議に参加することも含まれるかもしれません。レジスタンスといっても、攻撃的になったり、革命的である必要はないのです。効果を発揮するレジスタンス活動の多くは、例えば本や記事を回し読みしたり、地方紙に寄稿するといったように地味で継続的なものです。
「リニューアル(再生)」という言葉は、現行のシステムに対する前向きな代替案を創造しようとする試みを表しています。古き良き伝統や慣習を再発見し、失われつつある伝統をより持続可能なものにする取り組みともいえます。リニューアル活動の一例としては、農民市場(ファーマーズ・マーケット)や消費者協同組合、友達や近所の人びとと共に行う庭づくりなどがあります。
ぼくも、両方、ちゃんとなきゃだめだと思うのです。
ただ、単純ではないのは、Yes!系の運動は現状のシステムの補完物にされたりする危険と常に隣り合わせているし、他方でNo!系は、Yes!系のそういう部分を否定するあまりに、変革に向かう大切な萌芽を摘み取ってしまうこともあるかもしれないということです。
それぞれが違いを違いとして認識しつつ、間違っていると思うときは批判しあい(もちろん、それが人格の否定や暴力による意見の封じ込めにまで行かないように意識しながらですね)、社会運動を進めていくことが必要なんじゃないかと思うわけです。
P.S.
「な?んだ、そんなこと」っていうような結論で申し訳ないんですが、ま、ぼくが書くのはそんな程度です。(見上げた自己肯定感だ)
『夜明けのオバマ』に触発されて |
今月のお薦め/つるたまさひで |
最近読んだ本のことを書くことになりました。 |