---ピープルズプラン21世紀(PP21)大会
---ネパール、カトマンズにて、1996年3月5日から11日まで
■”多様性をたたえる、生命をたたえる”
私たちは、アジア太平洋地域から(アフリカ、ラテンアメリカ、北アメリカ、ヨーロッパからの友人たちも連なって)、文化的多元主義、正義、エコロジー、民主主義をめざす闘いに従事している女性、農民、労働者、青年、先住民族の、大衆組織、政治運動、ヴォランティア組織、支援グループからやってきた。私たちは、第三回二一世紀のためのピープルズ・プラン(pp21)合流で、一九九六年三月、ネパールのカトマンズに集まり、私たちの集合の歴史におけるこの重大な転機に立って、私たちの経験、夢、プランを分かち合った。
私たちは、一九八九年、日本の水俣に始まった希望の連合を作るプロセスを継続するための、民衆と関係者の幅広い連合体として集まった。水俣では、私たちは、開発の支配的なモデルを批判し、「自分たちの生活を左右する決定の実施については、その決定がどこで下されるにしろ、それを批判し、それに反対し、かつその実施を阻止する」天賦の普遍的な権利が民衆にあることを宣言した。一九九二年、私たちは、タイのバンコクに集まり、私たちの誓いと約束を更新し、「私たちを非人間化し、富と権力の鎖につなぐ、家族、市町村、国内、国際の各レベルでの不正義な構造を打破すること」に私たちの人間性があることをあらためて表明した。これら二回の集合は、私たちの間で進んでいる多種多様な回路を通じての連携と相互交流をはっきりと示した。
私たちが、私たちの闘いの多様性を分かち合い、私たちの抵抗の、私たちの希望と切実な願いの多元性をたたえるにつれ、私たちは強められる。ちがった分野と関心事を持つ他者との私たちの相互交流は、私たちの立場に、新しい見方を加え、変化をもたらした。私たちは、万人にとっての平和と正義の社会の建設をめざして不断に探求し、活動しようという誓いを新たにして、私たちがひきつづき活力と責任ある参加をおこなっていることを表明する。
支配的な経済的、政治的システムが、私たちが重視している問題を周辺へ追いやろうと試みているのに対して、私たちは、集団として、私たちの闘いと私たちのヴィジョンとが中心課題であることを再確認する。それが中心課題だというのは、私たちの日常生活に、私たちの生きることに、支配的なシステムが巻き起こしている混沌とした渦巻きをくぐって私たちが舵を操ることに根拠を置いているからである。私たちの実践と回答のうちに、支配するシステムへの想像力に富むオルタナティブがあるからこそ、そこが中心なのである。
私たちは、私たちが直面する多種多様な、経済的、政治的、エコロジー的、文化的危機を指摘し、解決するために、選挙で選ばれた代表や指導的な政治家をただ待っていはしないだろうし、待つ必要はない。私たちは、私たちの森の消滅、私たちの川の死滅、大気の汚染、私たちの土地の地力低下、私たちの暮らしの破壊、国家と国家以外の主体による抑圧を受け入れないであろうし、受け入れる必要はない。私たちは、私たちの共通の経験を論じあい、私たちが実践し、発展させてきたオルタナティブを交流するために集まった。私たちは、この過程で、私たちの生活と私たちの尊厳を私たち自身の手に入れ、希望の連合と自己確信を強めている。
私たちは、女性として、私たち自身が地域で、国内で、世界全体で合流し、いたるところで力量を高めていることをたたえる。私たちは、ジェンダーの正義、平等、尊厳、その他の人権のための闘いにおいて、人身売買および女性に加えられる公然、隠然の暴力のあらゆる形態に反対する闘いにおいて、私たちの勇気と行動を示してきた。私たちは、女性として、たとえそれを維持するものが誰であろうと、私たち自身を支配、抑圧、周辺化のあらゆる力から私たち自身を解放するために、男性と共に闘う。私たちは、公私両面の生活において、思いやり、分かち合い、子育て、介護といった価値に基礎を置く生活中心の関係と生活支持システムを創造する発展のオルタナティブな道を実践することに努める。それは、支配的な近代的発展のモデルにおける軍隊的な、自己中心的な、競争本位の男性思考、また私たちの文化と社会とにしみこんでいる暴力を特徴づけている価値とは対極にあるものである。
ひるむことなく、私たちは、女性として、政治と宗教の民衆操作に反対して結集してきた。女性の人権を守る闘いにおいて力量を高めてきた。私たちは、すべての種類、すべての扮装の過激主義に反対する私たちの抵抗をたたえる。私たちは、家の中で、町の通りで、私たちが恐怖から自由である権利を再度確認する。私たちは、私たちを陵辱し、私たちに売春を強要する軍事化の進行に抵抗する。私たちは、地雷のような、そして大地や海や空から生命を奪う核兵器の実験のような大量破壊兵器に抗議する。私たちは、私たちを悲嘆の中に置き去りにするもろもろの戦争と紛争に、引き続き「ノー!」と言い続けることを誓う。
私たちは、私たちの子供から健康と幸福な子供時代を奪う貧困と有害な環境に反対して闘うために力を振り絞る。私たちの木や山や川に対する愛情は、植民者と企業の利益によるそれらの破壊に対する抵抗のなかにつねに輝いている。私たちは、ただ破壊するための開発を、ただ撹乱するための命令を、ただ非人間化するための管理と効用を指示する合理性に、「ノー!」という。
私たちは、青年と子どもであることをたたえる。私たちは、私たちの、人間らしい暮らしと創造性を発展させるための余裕への権利を再確認する。私たちは、私たちを同質化することをめざし、浪費、利己主義、強欲へと私たちをそそのかす支配的教育に従うことを拒否する。私たちは、失業のさなかにおいても希望を失わない。児童労働者の叫びは、すべての搾取システムの悲惨と悲劇に立ち向かうよう、私たちをうながす響きをたてている。
私たちは、先住民族、植民地化された民族としての、自治、脱植民地化、文化とアイデンティティの再主張をめざす私たちの闘いを誇りとする。私たちは、私たちの土地や財産を奪い、居住地から追い立てる大規模な、破壊をともなう開発計画に抵抗する私たちの不屈の闘いをたたえる。私たちは、ひきつづき私たちを難民にする勢力と対決し、私たちを自由に自分の土地に帰れるようにするあらゆる努力を促進する。
私たちは、持続可能ではない現代の商業的漁業に脅かされている伝統的な漁業共同体として、過密なエビ養殖、マングローブ林の伐採、サンゴ礁の破壊と闘う。私たちは、沿岸の土地や浅瀬の汚染、核廃棄物、産業廃棄物の投棄に反対する私たちの努力をさらに続ける。
私たちは、農民として、農業を工業の様式で再組織しようとする多国籍農業商社の優勢な力、すなわち輸出換金作物の大量生産、生産物の規格統一、垂直的統合にたいする一つのオルタナティブとして、生物学的に多様性のある、エコロジー的に健全な農業システムを発展させるためのさまざまな試みを推進する。私たちは、生産者のネットワークを通じて有機栽培の実践を強め、広めることに努める。
私たちは、失業、低賃金、嘆かわしい労働条件、団結権への侵害と闘う労働者としての私たちの重層的な闘争に勇気を奮う。私たちは、多国籍企業と国内企業に対決するために国境を越えた連携をさらに進める。私たちは、産業災害と危険の犠牲者と生存者への、私たちの連帯を広げる。一致して、私たちは、利潤を追い求め、ほんのわずかな人たちだけを潤す”自由”市場の論理をしりぞける。
私たちは、国内、国外へ、望まない移住をしないでも生活することのできる社会を求める。また私たちは、自分が選んだところで働き、生活する権利を主張する。私たちは、虐待と搾取から保護される権利を要求する。
私たちは、国内的、地域的経済政策が、地域需要よりも輸出を優先させ、民衆の生活保障よりも私的蓄積を優先させるのとは反対に、生産者と消費者との間の非搾取的な、民主主義的な提携関係を産み出す努力を奨励する。
私たちは、作家、詩人として、民主主義の名のもとに圧制を合法化する現在の世界状況を糾弾する私たちの抗議の言葉を賞賛する。私たちは、宗教的、民族的少数者を差別し、ジェンダー、階級、人種、カースト上の排他的自己中心主義を存続させ、宗教的偶像崇拝と過激主義を擁護し、消費礼賛主義を推進する勢力に対して闘う。私たちは、連帯、尊厳、自由に基礎をおく新しい世紀へ向かっての力量蓄積のためのすべての闘いを支持する。
私たちは、私たちの、芸術、舞踊、演劇、音楽などの多様な文化的伝統の創造性と抵抗をたたえる。また、中央集権的なコミュニケーションシステムが、同質化をうながし、単色の文化で世界を見る見方を投じているのとは反対に、言語と文化の多様性をたたえる。
私たちは、社会保障課題を私企業化したり、縮小したりする措置とは反対に、良質の保健衛生と教育をめざす私たちの努力を再誓約する。私たちはまた、オルタナティブを探ることに力を注ぐ。
私たちは、富と貧困の両極化がこの三〇年間に二倍になったほど進行しているにもかかわらず、暮らしを回復する私たちの闘いを持続している。私たちはまた、私たちの国の対外負債を帳消しにさせる継続的努力を支持する。私たちの行動、闘争、運動を、たたえ、喜び、それらから力を得るにつれ、私たちは、希望をあらためて確認する。国境と言語を、文化と思想を横断する希望を。しかし、私たちは、運動としての、組織としての、社会変革の主体としての、私たちの内なる弱さをも認識しなければならない。私たちは、たえず、誠実で、謙虚で、自己反省的でなければならない。そして決して無責任で、不透明で、攻撃的になることを自分に許してはならない。私たちは、国内、国際の権力機関、権力機構に吸収されてはならない。私たちは、他の人たちを励まして私たちの仲間に加わるようにうながす。これが遠い未来に実現される夢ではなく、いま、ここで現実になりつつあるものであるという希望と信念において!
■”実現可能なヴィジョンをえがく”
私たちは認識している。私たちの達成した成果をたたえる喜びを持続し前進させることができるのは、進んで連携し抵抗することを通じて私たちの運動を築くことに私たちが継続的努力をはらうときだけであるということを。私たちの努力は、私たちの運動が、実現可能なことについての私たちのヴィジョンを描いてはまた描き直す際に、効果的な介入力になるであろう。このようなダイナミックなヴィジョンがあってこそ、私たちは現に支配している政治的、経済的、社会的、文化的システムに近づき、対決し、変革することができるにちがいない。
いまあたらしい世紀の入り口にあって、政治と経済のエリートたちは、私たちの地域を世界全体の経済成長のセンターにしようと構想し、狙いをつけている。国際的な貿易と金融の諸機関の、支配を続けるための連合は、政府官僚、企業家、軍部指導者、政治家そしてその他のエリート集団と手を組み、かれらに支えられて、私たちの社会を再編しようとしている。
同時に、注目に値する一連の民衆行動が、次第にその独自性を発揮しつつある。私たちの経験と闘争の、この幅広い多様なつらなりの中にますます映し出されているものは、私たちの地域を世界の経済成長のセンターとしてほめたたえるレトリックへの拒否である。このような声は、支配的な経済政治システムの漸進的な改革を越えて進む必要を強調している。私たちにとって、「進歩」とは総成長額でもなく、輸出収益の増大でもなく、国民総生産額の増加でもなく、ましてやショッピングアーケード、ホテル、ゴルフコースの増加でもない。「進歩」とは、膨大な資源を軍事支出に浪費して、各人が健全な生産的生活を尊厳をもって実現できるよう保証する条件づくりに必要な基礎的な需要を犠牲にすることではない。「進歩」は、経済的主体と活動過程がますます中央集権化されることへ制御力を失うことにあるのではない。
あまりにも長いあいだ私たちは、私たちの森が、大地が、水が、大規模ダムやパイプラインや有毒物質汚染によって、持続可能でない農法や漁業によって、自然資源の無茶苦茶な、犯罪的な奪取によって、私的蓄積と持続可能でない産業主義を支えるために傷つけられるのを見てきた。あまりにも長いあいだ私たちは、立ち退きを強いられ、土地を奪われ、囲い込まれ、追い出され、拘束され、投獄され、拷問され、殺されてきた。あまりにも長いあいだ、女性の私たちは、人身売買と売春を強いられてきた。あまりにも長いあいだ、子どもの私たちは、私たちの子供時代を、心身をさいなみ、誇りを失わせる労働に空しく費やしてきた。あまりにも長いあいだ、私たちは生産がおこなわれる場所から遥か遠くにいる他人が、私たちの生活にきわめて根本的かつ敵対的な影響を及ぼす決定を下すのを見てきた。あまりにも長いあいだ、私たちは、私たちの一致、私たちの闘争、私たちの自然への結びつきを解体しようとする行為を目の当たりにしてきた。あまりにも長いあいだ、消費拡大主義の夢に酔わせる催眠の力が、非常に多くの私たちの心情をとりこにしてきた。あまりにも長いあいだ、私たちの文化と言語、私たちの知の在り方と生き方が、価値を奪われ、妨害され、腐らせられ、片隅へ追いやられてきた。あまりにも長いあいだ、宗教的、文化的不寛容が、政治的極右主義が、人種差別主義と同性愛忌避が、私たちの社会と私たちの生活にのさばってきた。 ヒューマニズムの名において、近代化の支配的形態は、ヒューマニズムを否定している。その合理性の名において(その多くはGNPのような没感情的な、非合理な量的還元を通じて)、そしてそれを真理と主張する権利の名において、それは不平等、搾取、従属を正当化する。私たちは、もうたくさんだ!という高まりつつある声を代表している。両性の在り方が正義にかない、エコロジカルに持続可能であり、政治的に民主主義的な( gender just, ecologically sustainable and politically democratic) 社会、多様性と多元主義を歓迎する社会、持続可能な生計、安全、尊厳が保証される社会、私たちの子どもの、平和で正義にかない、エコロジカルに安全な未来に責任を持つ社会を集団のヴィジョンとすることをたたえる声を代表している。 私たちのヴィジョンは、右肩上がり直線型発展、無際限のGNP成長、自然の「征服」に基礎をおく進歩、補充と再生産を犠牲にした生産第一主義、男性支配、文化的同質化、民族、アイデンティティ、自然の、継続的植民地化という神話によって特徴づけられる支配的な文明のパラダイムを根本から作りなおす課題をめざしている。私たちのヴィジョンでは、生産、消費、再生産のサイクルが自然のサイクルと同調するように、生活の違った諸次元が、有機的なそして活動的な仕方で連結されなければならない。
私たちのヴィジョンは、生命を中心に据えた諸価値――共感、介護、養育、共生――に基礎をおく社会をめざしている。それらの価値が、すべての人に、男性にも女性にも同じように受容され、社会関係に浸透し、人間の生活の場と自然とのあいだに対話の関係をもたらすことをめざしている。私たちのヴィジョンは、生産の活動と再生産の活動――私たちが食べ、養い、産み、育て、楽しみ、悲しむこと、社会的関係の中で私たち自身と次の世代を再産出することの追求――とが生きることの全体性のなかで統合されるプロセスをめざしている。
このプロセスは、とくに男性の側に真剣な努力を要求する。というのも歴史を貫通して打ち固められてきた支配的な価値は、生産が最高で再生産は二の次だと決め込んでいるし、運命に打ち勝つ努力とは、相手を負かす競争、破壊の技術、軍事行動、および政府、政治、エスニシティ、経済、宗教の名による制度化された暴力をつうじて、自然と他の人間とを征服することの追求だとみなしているからである。
私たちのヴィジョンは、私たちの仲間のフェミニストが提起する見方によって活気づけられ、ゆたかにされることによって、関係を二つの極――からだとこころ、自然と人間(男)、公と私、伝統的と近代的、不払いであるので価値のない仕事と、支払われるので価値のある仕事――に二分する「男性」中心的な二元論思考の論理の罠から、同様に、女性を自然に、男性を文明に帰属させるするジェンダー二元論の罠から、私たちを解放するであろう。
私たちのヴィジョンは、現行の代議制民主主義をはるかに越えたところにある、民主主義的で参加に重点を置いた統治の方式と機構をめざしている。民主主義は、日々の関係の中に、家庭での男性と女性のあいだ、また大人と子どものあいだにも、実行されなければならないし、市町村のレベルでも、国と世界のレベルでも実行されなければならない。制度と官僚機構の機能も参加の機構を含まなければならない。自然資源の市町村によるコントロール、社会組織の多極的システムは、私たちのヴィジョンの重要な要素である。人権を補強する諸概念――先住民族の権利、女性の再生産の権利と社会的諸権利、そしてその他の集団的権利は、民衆の闘争の最良の遺産をあらわすものであって、この民主主義の実現の過程においてさらに推進され、強められるであろう。
私たちのヴィジョンは、全地球的民主主義(global democracy)――PP21水俣宣言で強調された越境する参加民主主義(Transborder participatory democracy)――をめざしている。それは全世界的な権力センターに対抗し、最終的にそれを解体することをめざし、あわせて現代の人類社会の最優先の課題である、世界の民衆の南と北への分断を克服することをめざしている。
私たちはお互いのあいだの新しい関係をつくるために働く。男性と女性とのあいだの、生産者と消費者とのあいだの、都市と農村とのあいだの、北と南とのあいだの、人間存在と自然とのあいだの。このすべてのレベルにおける民主主義化の過程は、全世界の民衆の連合――希望の連合――をつうじて実践されるだろう。それは、平和、寛容、エコロジー面での配慮と平和的共生、といった精神に立って活き活きと相互に働きかけあう活動によって形成されるであろう。民衆の統治とはこのような連合に根拠を置くものであろう。
持続可能性とは、私たちのヴィジョンにおいては、人間の活動が生態系循環(eco-cycles)を通じて自然と総合されるという原則の上に、地球上の人間の経済社会のシステムが再組織され、自然の一方的な搾取に基礎をおかないことを意味している。このことは文化と価値の根本的な変革を要請する。アジア・太平洋には、自然に親しむ生活態度と生活観を育ててきた先住民族、女性、農民たちの経験と知恵が豊かにある。民衆の知恵は、人類社会のまったくちがったパラダイムと規範を指し示している。もちろん、私たちは前近代の時代に逆戻りするのがよいと言っているのではない。そうした知恵が、近代の遺産の中の肯定的側面と総合されて全面的に発展させられることを望んでいるのである。
私たちは、民衆の見地から平和と安全に関する焦眉の問題に取り組む。私たちは、安全保障国家の理論によって間違った方向へ導かれることを拒否する。あるいは他者を排除することを声高に叫ぶ民族的、宗教的自己絶対主義の罠にとらわれることを拒否する。私たちは、民衆の安全保障を確保することに努める。誰であろうと私たちの生命を傷つけ私たちを殺すものはおなじである。平和への求めに含まれているのは、すべての種類の暴力をやめよという呼びかけである。そしてとくに、紛争を解決するために暴力を行使するのをやめよという呼びかけである。私たちの地域全体に増大している民間の争い--町や村での、宗教上での、民族間での、党派間での――および国家間の暴力は、全面戦争に劣らない破壊と損害をもたらしているばかりではなく、私たちの膝元に軍事化をもたらしており、その結果、破壊の道具が今日では私たちの国の風景のますます目に付く特徴となっている。 国家やその他の権力装置に民衆に責任をもたせるように闘う一方で、私たちは民衆の制御の下に、財貨とサービスの生産、流通、消費のオルタナティブ・システムを作り始めるために私たちの力量増大をはかる。そして民衆に基礎をおく経済的、社会的、文化的システムを徐々に創出する営みを応援する。私たちは、あらゆるレベルでの民衆の知識と民衆の統治の普及と発展のための連携を結ぶことに努める。
抵抗しつつ、建設しつつ、私たちは私たち自身の地力をつける(empowerment)に努める。抵抗しなければ、私たちは私たちのオルタナティブをつくることはできない。つくることができなければ、私たちの抵抗は持続可能にはならない。新しい関係によって新しい社会を築くために、私たちは、私たちがすでに完璧なヴィジョンとそれへ至る道筋をつかんでいると主張はしない。私たちが持っているのは、かすかに光っている踏み分け道だけである。私たちは支配するシステムの存続に私たち自身が加担していることを、私たち自身が上下関係秩序を再生産していることを、私たち自身が不正を見ても沈黙していることを、そして私たち自身の恐怖と恥を、反省し自己批判することによって、その踏み分け道を広げ、薄明を明るくすることに努める。私たちの敵にたいして対決するように、私たち自身と対決することによって、抵抗は、家族から市町村へ、集団内部の関係から集団間の関係へと、あらゆるレベルで発展することになるであろう。
■”私たち自身の実践的参加、連携づくり”
私たちの闘争とヴィジョンの成果だけでなく、草の根の実践を通じてあたらしいオルタナティブを作り上げるためになされてきた建設的活動があげた成果をも、要約し、たたえたからには、私たちは、不撓不屈の希望とオプティミズムで、また新鮮な活力で、私たちの誓約を表明する。。
私たちは国境の内外で連合を作り、そして強化することを誓約する。このような連合の基礎は愛、平和、相互信頼、そして非搾取的で透明な関係であろう。このような連合は、単なる連帯の表明にとどまるものではなく、ダイナミックで有機的な循環性のシステムに基礎を置く、オルタナティブな、社会的な、経済的な、そしてエコロジカルな関係を促進するであろう。
私たちは、地域、国、世界のレベルで、現存の権力と意思決定の機構に積極的に介入するような、民衆から民衆への連合をつくることを誓約する。実力に裏打ちされたこのような介入がめざすのは、権力と意思決定の過程および機構の作用にあたらしい方向をあたえ、ガラス張りで、民主的なものにすることである。とくに私たちは、それらの作用が民衆の大多数の生活を荒廃させている、国際的、地域的な貿易と金融機関の透明性の保持と民主化を保証するためにたえまなく闘うことを誓約する。
私たちは、地域での生産と経済を強化し、再生させることを誓約する。それは大多数の民衆の生活を支えるシステムの基礎として働いているからである。このことを実現するために、私たちは、大規模な破壊的計画(地元の商店をつぶす巨大スーパーマーケットや大規模ダムなど)の押しつけに抵抗すること、自然資源を、持続可能な利用の活動によって保護し、保全すること、文化的、社会的活動の多様性を推進し、強化すること、健康管理、地域保健、職人技術、農業実践のような領域における、経験的に確かめられた伝統的知恵を力づけることを誓約する。そしてとりわけ、私たちは第一次生産物の生産者による、資源、生産、販売の民主的な統制を可能にし、回復することを誓約する。
私たちは、科学技術と社会とのまったく新しい関係を作ることを誓約する。それは、新しい知識と伝統的な活動や知恵とを総合する関係であり、生産過程を、金銭欲を満たすためではなく必要を満たすためのものにするために地方分散的にし、エコロジーにかない、ジェンダーに敏感なものにすることを保証する関係である。
私たちは、生物多様性を保存し、先住民族や地域社会が持っている知識と民衆の知的所有権を保護し、他国の生物種探査者、とりわけ多国籍企業と結託した連中が仕掛けてくる猛攻撃に対抗することを誓約する。地域独特の種とそれに関する知識や活動が、地域を構成する民衆の共同所有であり続けるように保証することは、私たちの努力に待つところが大きいであろう。このような知識を金銭欲と利益の力で独占しようとする企ては、効果的に反撃されるであろう。地域的な種の多様性の再生、農業、園芸、花卉栽培、養魚、森林育成、養鶏、畜産を総合する活動と結合された薬草園の設立は、私たちの行動目標の一つである。
私たちは、女性の力量を高めるためにたえまなくはたらき、女性と男性が、政治と公共のレベルにおいてだけでなく各人の家庭内においても、意思決定と管理にたいする平等な責任を分かち合うようになることを誓約する。家父長制の権力に、それが表明されるあらゆる機会をとらえて戦略的な闘いを行うことは、私たちのなすべき努めである。とくに、私たちは、女性と子供に対する、人身売買を含めたあらゆる形態の暴力の根絶へ向かって働くことを誓約する。私たちはまた、社会が果たす作用と言論の過程を、家族、市町村、社会を、平和と愛と協同という価値で豊かにする方向に向かわせるよう努める。
私たちは、アジア全域の労働者たちが、超過搾取、長時間労働、危険な労働条件にたいして行っている抵抗を拡大することを誓約する。それらはとくに農村部出身の若年女性労働者が被っている苦しみである。農村労働力流出の主な原因の一つである農村部の崩壊の原因を除去する努力が必要である。
私たちは、多国籍企業と商社が利益の短期回収を追求して工場を勝手気ままに移転させることに対する抵抗に加わる。私たちは、労働者の諸権利、とくに自立的な労働組合と労働運動を組織する権利のための闘いを誓う。私たちは、多国籍企業に対する効果的な抵抗をつくりあげるための、この地域全域をおおう民衆のネットワークを推進することを誓約する。
私たちは、移民労働者の差し迫った心配事を理解し、効果的な仕方で援助を見つけ、慰めを提供することを誓約する。同時に私たちは、生産、再生産、消費の諸条件への支配の撤回を確実なものにし得る資金とスペースとの発展を求める移民労働者運動を作りあげていく過程に加わる。
私たちは、先住民族と植民地化された人々の、自己統治と脱植民地化の闘いの支援を誓約する。私たちは、持続可能でない大規模開発計画に対する、私たちの粘り強い反対と抵抗とをたたえる。私たちは、取り壊し処分や立ち退き強制に対する闘いを継続する。
私たちは、宗教的不寛容に、無慈悲な軍事化に、途方もない費用のかかる核爆弾と大量破壊兵器の実験に本来備わっている広範囲に及ぶ暴力の源泉を根絶するという決意で活動することを誓約する。私たちは、平和、協力、万人の安全保障の世紀を導き入れるために努める。
私たちは、北の世界のライフスタイルの基礎であり、また南の諸国の少数の人々の望むところでもある、飽和的豊かさ、消費、消費欲望刺激主義という前提そのものを問い直すことを誓約する。このことは、社会的諸運動間で、活動家、敏感な知識人と専門家たちの間で、東の世界の汲めどもつきない知恵と活動を活用しながら、新しい理論、哲学、霊性、戦略とオルタナティブモデルを体系的に探求するために、理論と実践の面での批判的な意見交換を組織することによって企てられるであろう。
私たちは、民衆組織、自発的グループ、NGOの運営の透明で民主的な形態を促進し、私たちの運営と活動がお手盛り人事をやったり、不適切な代表選出方法になったりする危険をまぬかれることを誓約する。
私たちの集いは、ここが始まりでもなければ、ここで終わるのでもない。それは、人生と真理へ向かう私たちの旅の、英気を養い、新鮮さをよみがえらせ、若さを取りもどすためのほんの一時の休止である。私たちがここで、魂に活気を呼び覚ますこの木陰に憩うときも、私たちは、決して不正に対する私たちの怒りの感情を解いてはいないことを明言する。
英気を取りもどし、若返って、私たちは、お互いに支えあい、学びあう。なぜなら私たちは、お互いにちがうのだから。多様性が私たちの活力である。私たちの多様性をつうじてこそ、私たちは、お互いにより組織的に連携することができるし、屈服させようとする力に抵抗する私たちの努力を集約することができるし、お互いが豊かになる多元的関係を気づくことだできる。こうしたすべてのことについての活力を維持するために、私たちは、私たちに可能なことがらのヴィジョンを描いては描き直すプロセスに参加することを誓約する。それは同時に、ミクロなものと直接的なものをグローバルな関連において把握し直すことができるように、私たちの課題とオルタナティブを新たに組み建てなおすために、お互いが学びあう過程である。
サガルマタとは、エベレスト山のネパール語名である。私たちは、最初は、スリランカのコロンボに集まる計画であった。しかし私たちではどうにもできない事情によって、代替の場所が探された。真の連帯と勇気と支援の精神によって、ネパールの友人たちが、会合の受け入れを申し出てくれた。カトマンズにあっても、私たちの心と祈り、憂慮と願いはスリランカの民衆と共にある。そして紛争に対する彼らの、正義にかなった平和的な解決の求めとともにある。
(花崎皋平訳)
---ネパール、カトマンズにて、1996年3月5日から11日まで
■”多様性をたたえる、生命をたたえる”
私たちは、アジア太平洋地域から(アフリカ、ラテンアメリカ、北アメリカ、ヨーロッパからの友人たちも連なって)、文化的多元主義、正義、エコロジー、民主主義をめざす闘いに従事している女性、農民、労働者、青年、先住民族の、大衆組織、政治運動、ヴォランティア組織、支援グループからやってきた。私たちは、第三回二一世紀のためのピープルズ・プラン(pp21)合流で、一九九六年三月、ネパールのカトマンズに集まり、私たちの集合の歴史におけるこの重大な転機に立って、私たちの経験、夢、プランを分かち合った。
私たちは、一九八九年、日本の水俣に始まった希望の連合を作るプロセスを継続するための、民衆と関係者の幅広い連合体として集まった。水俣では、私たちは、開発の支配的なモデルを批判し、「自分たちの生活を左右する決定の実施については、その決定がどこで下されるにしろ、それを批判し、それに反対し、かつその実施を阻止する」天賦の普遍的な権利が民衆にあることを宣言した。一九九二年、私たちは、タイのバンコクに集まり、私たちの誓いと約束を更新し、「私たちを非人間化し、富と権力の鎖につなぐ、家族、市町村、国内、国際の各レベルでの不正義な構造を打破すること」に私たちの人間性があることをあらためて表明した。これら二回の集合は、私たちの間で進んでいる多種多様な回路を通じての連携と相互交流をはっきりと示した。
私たちが、私たちの闘いの多様性を分かち合い、私たちの抵抗の、私たちの希望と切実な願いの多元性をたたえるにつれ、私たちは強められる。ちがった分野と関心事を持つ他者との私たちの相互交流は、私たちの立場に、新しい見方を加え、変化をもたらした。私たちは、万人にとっての平和と正義の社会の建設をめざして不断に探求し、活動しようという誓いを新たにして、私たちがひきつづき活力と責任ある参加をおこなっていることを表明する。
支配的な経済的、政治的システムが、私たちが重視している問題を周辺へ追いやろうと試みているのに対して、私たちは、集団として、私たちの闘いと私たちのヴィジョンとが中心課題であることを再確認する。それが中心課題だというのは、私たちの日常生活に、私たちの生きることに、支配的なシステムが巻き起こしている混沌とした渦巻きをくぐって私たちが舵を操ることに根拠を置いているからである。私たちの実践と回答のうちに、支配するシステムへの想像力に富むオルタナティブがあるからこそ、そこが中心なのである。
私たちは、私たちが直面する多種多様な、経済的、政治的、エコロジー的、文化的危機を指摘し、解決するために、選挙で選ばれた代表や指導的な政治家をただ待っていはしないだろうし、待つ必要はない。私たちは、私たちの森の消滅、私たちの川の死滅、大気の汚染、私たちの土地の地力低下、私たちの暮らしの破壊、国家と国家以外の主体による抑圧を受け入れないであろうし、受け入れる必要はない。私たちは、私たちの共通の経験を論じあい、私たちが実践し、発展させてきたオルタナティブを交流するために集まった。私たちは、この過程で、私たちの生活と私たちの尊厳を私たち自身の手に入れ、希望の連合と自己確信を強めている。
私たちは、女性として、私たち自身が地域で、国内で、世界全体で合流し、いたるところで力量を高めていることをたたえる。私たちは、ジェンダーの正義、平等、尊厳、その他の人権のための闘いにおいて、人身売買および女性に加えられる公然、隠然の暴力のあらゆる形態に反対する闘いにおいて、私たちの勇気と行動を示してきた。私たちは、女性として、たとえそれを維持するものが誰であろうと、私たち自身を支配、抑圧、周辺化のあらゆる力から私たち自身を解放するために、男性と共に闘う。私たちは、公私両面の生活において、思いやり、分かち合い、子育て、介護といった価値に基礎を置く生活中心の関係と生活支持システムを創造する発展のオルタナティブな道を実践することに努める。それは、支配的な近代的発展のモデルにおける軍隊的な、自己中心的な、競争本位の男性思考、また私たちの文化と社会とにしみこんでいる暴力を特徴づけている価値とは対極にあるものである。
ひるむことなく、私たちは、女性として、政治と宗教の民衆操作に反対して結集してきた。女性の人権を守る闘いにおいて力量を高めてきた。私たちは、すべての種類、すべての扮装の過激主義に反対する私たちの抵抗をたたえる。私たちは、家の中で、町の通りで、私たちが恐怖から自由である権利を再度確認する。私たちは、私たちを陵辱し、私たちに売春を強要する軍事化の進行に抵抗する。私たちは、地雷のような、そして大地や海や空から生命を奪う核兵器の実験のような大量破壊兵器に抗議する。私たちは、私たちを悲嘆の中に置き去りにするもろもろの戦争と紛争に、引き続き「ノー!」と言い続けることを誓う。
私たちは、私たちの子供から健康と幸福な子供時代を奪う貧困と有害な環境に反対して闘うために力を振り絞る。私たちの木や山や川に対する愛情は、植民者と企業の利益によるそれらの破壊に対する抵抗のなかにつねに輝いている。私たちは、ただ破壊するための開発を、ただ撹乱するための命令を、ただ非人間化するための管理と効用を指示する合理性に、「ノー!」という。
私たちは、青年と子どもであることをたたえる。私たちは、私たちの、人間らしい暮らしと創造性を発展させるための余裕への権利を再確認する。私たちは、私たちを同質化することをめざし、浪費、利己主義、強欲へと私たちをそそのかす支配的教育に従うことを拒否する。私たちは、失業のさなかにおいても希望を失わない。児童労働者の叫びは、すべての搾取システムの悲惨と悲劇に立ち向かうよう、私たちをうながす響きをたてている。
私たちは、先住民族、植民地化された民族としての、自治、脱植民地化、文化とアイデンティティの再主張をめざす私たちの闘いを誇りとする。私たちは、私たちの土地や財産を奪い、居住地から追い立てる大規模な、破壊をともなう開発計画に抵抗する私たちの不屈の闘いをたたえる。私たちは、ひきつづき私たちを難民にする勢力と対決し、私たちを自由に自分の土地に帰れるようにするあらゆる努力を促進する。
私たちは、持続可能ではない現代の商業的漁業に脅かされている伝統的な漁業共同体として、過密なエビ養殖、マングローブ林の伐採、サンゴ礁の破壊と闘う。私たちは、沿岸の土地や浅瀬の汚染、核廃棄物、産業廃棄物の投棄に反対する私たちの努力をさらに続ける。
私たちは、農民として、農業を工業の様式で再組織しようとする多国籍農業商社の優勢な力、すなわち輸出換金作物の大量生産、生産物の規格統一、垂直的統合にたいする一つのオルタナティブとして、生物学的に多様性のある、エコロジー的に健全な農業システムを発展させるためのさまざまな試みを推進する。私たちは、生産者のネットワークを通じて有機栽培の実践を強め、広めることに努める。
私たちは、失業、低賃金、嘆かわしい労働条件、団結権への侵害と闘う労働者としての私たちの重層的な闘争に勇気を奮う。私たちは、多国籍企業と国内企業に対決するために国境を越えた連携をさらに進める。私たちは、産業災害と危険の犠牲者と生存者への、私たちの連帯を広げる。一致して、私たちは、利潤を追い求め、ほんのわずかな人たちだけを潤す”自由”市場の論理をしりぞける。
私たちは、国内、国外へ、望まない移住をしないでも生活することのできる社会を求める。また私たちは、自分が選んだところで働き、生活する権利を主張する。私たちは、虐待と搾取から保護される権利を要求する。
私たちは、国内的、地域的経済政策が、地域需要よりも輸出を優先させ、民衆の生活保障よりも私的蓄積を優先させるのとは反対に、生産者と消費者との間の非搾取的な、民主主義的な提携関係を産み出す努力を奨励する。
私たちは、作家、詩人として、民主主義の名のもとに圧制を合法化する現在の世界状況を糾弾する私たちの抗議の言葉を賞賛する。私たちは、宗教的、民族的少数者を差別し、ジェンダー、階級、人種、カースト上の排他的自己中心主義を存続させ、宗教的偶像崇拝と過激主義を擁護し、消費礼賛主義を推進する勢力に対して闘う。私たちは、連帯、尊厳、自由に基礎をおく新しい世紀へ向かっての力量蓄積のためのすべての闘いを支持する。
私たちは、私たちの、芸術、舞踊、演劇、音楽などの多様な文化的伝統の創造性と抵抗をたたえる。また、中央集権的なコミュニケーションシステムが、同質化をうながし、単色の文化で世界を見る見方を投じているのとは反対に、言語と文化の多様性をたたえる。
私たちは、社会保障課題を私企業化したり、縮小したりする措置とは反対に、良質の保健衛生と教育をめざす私たちの努力を再誓約する。私たちはまた、オルタナティブを探ることに力を注ぐ。
私たちは、富と貧困の両極化がこの三〇年間に二倍になったほど進行しているにもかかわらず、暮らしを回復する私たちの闘いを持続している。私たちはまた、私たちの国の対外負債を帳消しにさせる継続的努力を支持する。私たちの行動、闘争、運動を、たたえ、喜び、それらから力を得るにつれ、私たちは、希望をあらためて確認する。国境と言語を、文化と思想を横断する希望を。しかし、私たちは、運動としての、組織としての、社会変革の主体としての、私たちの内なる弱さをも認識しなければならない。私たちは、たえず、誠実で、謙虚で、自己反省的でなければならない。そして決して無責任で、不透明で、攻撃的になることを自分に許してはならない。私たちは、国内、国際の権力機関、権力機構に吸収されてはならない。私たちは、他の人たちを励まして私たちの仲間に加わるようにうながす。これが遠い未来に実現される夢ではなく、いま、ここで現実になりつつあるものであるという希望と信念において!
■”実現可能なヴィジョンをえがく”
私たちは認識している。私たちの達成した成果をたたえる喜びを持続し前進させることができるのは、進んで連携し抵抗することを通じて私たちの運動を築くことに私たちが継続的努力をはらうときだけであるということを。私たちの努力は、私たちの運動が、実現可能なことについての私たちのヴィジョンを描いてはまた描き直す際に、効果的な介入力になるであろう。このようなダイナミックなヴィジョンがあってこそ、私たちは現に支配している政治的、経済的、社会的、文化的システムに近づき、対決し、変革することができるにちがいない。
いまあたらしい世紀の入り口にあって、政治と経済のエリートたちは、私たちの地域を世界全体の経済成長のセンターにしようと構想し、狙いをつけている。国際的な貿易と金融の諸機関の、支配を続けるための連合は、政府官僚、企業家、軍部指導者、政治家そしてその他のエリート集団と手を組み、かれらに支えられて、私たちの社会を再編しようとしている。
同時に、注目に値する一連の民衆行動が、次第にその独自性を発揮しつつある。私たちの経験と闘争の、この幅広い多様なつらなりの中にますます映し出されているものは、私たちの地域を世界の経済成長のセンターとしてほめたたえるレトリックへの拒否である。このような声は、支配的な経済政治システムの漸進的な改革を越えて進む必要を強調している。私たちにとって、「進歩」とは総成長額でもなく、輸出収益の増大でもなく、国民総生産額の増加でもなく、ましてやショッピングアーケード、ホテル、ゴルフコースの増加でもない。「進歩」とは、膨大な資源を軍事支出に浪費して、各人が健全な生産的生活を尊厳をもって実現できるよう保証する条件づくりに必要な基礎的な需要を犠牲にすることではない。「進歩」は、経済的主体と活動過程がますます中央集権化されることへ制御力を失うことにあるのではない。
あまりにも長いあいだ私たちは、私たちの森が、大地が、水が、大規模ダムやパイプラインや有毒物質汚染によって、持続可能でない農法や漁業によって、自然資源の無茶苦茶な、犯罪的な奪取によって、私的蓄積と持続可能でない産業主義を支えるために傷つけられるのを見てきた。あまりにも長いあいだ私たちは、立ち退きを強いられ、土地を奪われ、囲い込まれ、追い出され、拘束され、投獄され、拷問され、殺されてきた。あまりにも長いあいだ、女性の私たちは、人身売買と売春を強いられてきた。あまりにも長いあいだ、子どもの私たちは、私たちの子供時代を、心身をさいなみ、誇りを失わせる労働に空しく費やしてきた。あまりにも長いあいだ、私たちは生産がおこなわれる場所から遥か遠くにいる他人が、私たちの生活にきわめて根本的かつ敵対的な影響を及ぼす決定を下すのを見てきた。あまりにも長いあいだ、私たちは、私たちの一致、私たちの闘争、私たちの自然への結びつきを解体しようとする行為を目の当たりにしてきた。あまりにも長いあいだ、消費拡大主義の夢に酔わせる催眠の力が、非常に多くの私たちの心情をとりこにしてきた。あまりにも長いあいだ、私たちの文化と言語、私たちの知の在り方と生き方が、価値を奪われ、妨害され、腐らせられ、片隅へ追いやられてきた。あまりにも長いあいだ、宗教的、文化的不寛容が、政治的極右主義が、人種差別主義と同性愛忌避が、私たちの社会と私たちの生活にのさばってきた。 ヒューマニズムの名において、近代化の支配的形態は、ヒューマニズムを否定している。その合理性の名において(その多くはGNPのような没感情的な、非合理な量的還元を通じて)、そしてそれを真理と主張する権利の名において、それは不平等、搾取、従属を正当化する。私たちは、もうたくさんだ!という高まりつつある声を代表している。両性の在り方が正義にかない、エコロジカルに持続可能であり、政治的に民主主義的な( gender just, ecologically sustainable and politically democratic) 社会、多様性と多元主義を歓迎する社会、持続可能な生計、安全、尊厳が保証される社会、私たちの子どもの、平和で正義にかない、エコロジカルに安全な未来に責任を持つ社会を集団のヴィジョンとすることをたたえる声を代表している。 私たちのヴィジョンは、右肩上がり直線型発展、無際限のGNP成長、自然の「征服」に基礎をおく進歩、補充と再生産を犠牲にした生産第一主義、男性支配、文化的同質化、民族、アイデンティティ、自然の、継続的植民地化という神話によって特徴づけられる支配的な文明のパラダイムを根本から作りなおす課題をめざしている。私たちのヴィジョンでは、生産、消費、再生産のサイクルが自然のサイクルと同調するように、生活の違った諸次元が、有機的なそして活動的な仕方で連結されなければならない。
私たちのヴィジョンは、生命を中心に据えた諸価値――共感、介護、養育、共生――に基礎をおく社会をめざしている。それらの価値が、すべての人に、男性にも女性にも同じように受容され、社会関係に浸透し、人間の生活の場と自然とのあいだに対話の関係をもたらすことをめざしている。私たちのヴィジョンは、生産の活動と再生産の活動――私たちが食べ、養い、産み、育て、楽しみ、悲しむこと、社会的関係の中で私たち自身と次の世代を再産出することの追求――とが生きることの全体性のなかで統合されるプロセスをめざしている。
このプロセスは、とくに男性の側に真剣な努力を要求する。というのも歴史を貫通して打ち固められてきた支配的な価値は、生産が最高で再生産は二の次だと決め込んでいるし、運命に打ち勝つ努力とは、相手を負かす競争、破壊の技術、軍事行動、および政府、政治、エスニシティ、経済、宗教の名による制度化された暴力をつうじて、自然と他の人間とを征服することの追求だとみなしているからである。
私たちのヴィジョンは、私たちの仲間のフェミニストが提起する見方によって活気づけられ、ゆたかにされることによって、関係を二つの極――からだとこころ、自然と人間(男)、公と私、伝統的と近代的、不払いであるので価値のない仕事と、支払われるので価値のある仕事――に二分する「男性」中心的な二元論思考の論理の罠から、同様に、女性を自然に、男性を文明に帰属させるするジェンダー二元論の罠から、私たちを解放するであろう。
私たちのヴィジョンは、現行の代議制民主主義をはるかに越えたところにある、民主主義的で参加に重点を置いた統治の方式と機構をめざしている。民主主義は、日々の関係の中に、家庭での男性と女性のあいだ、また大人と子どものあいだにも、実行されなければならないし、市町村のレベルでも、国と世界のレベルでも実行されなければならない。制度と官僚機構の機能も参加の機構を含まなければならない。自然資源の市町村によるコントロール、社会組織の多極的システムは、私たちのヴィジョンの重要な要素である。人権を補強する諸概念――先住民族の権利、女性の再生産の権利と社会的諸権利、そしてその他の集団的権利は、民衆の闘争の最良の遺産をあらわすものであって、この民主主義の実現の過程においてさらに推進され、強められるであろう。
私たちのヴィジョンは、全地球的民主主義(global democracy)――PP21水俣宣言で強調された越境する参加民主主義(Transborder participatory democracy)――をめざしている。それは全世界的な権力センターに対抗し、最終的にそれを解体することをめざし、あわせて現代の人類社会の最優先の課題である、世界の民衆の南と北への分断を克服することをめざしている。
私たちはお互いのあいだの新しい関係をつくるために働く。男性と女性とのあいだの、生産者と消費者とのあいだの、都市と農村とのあいだの、北と南とのあいだの、人間存在と自然とのあいだの。このすべてのレベルにおける民主主義化の過程は、全世界の民衆の連合――希望の連合――をつうじて実践されるだろう。それは、平和、寛容、エコロジー面での配慮と平和的共生、といった精神に立って活き活きと相互に働きかけあう活動によって形成されるであろう。民衆の統治とはこのような連合に根拠を置くものであろう。
持続可能性とは、私たちのヴィジョンにおいては、人間の活動が生態系循環(eco-cycles)を通じて自然と総合されるという原則の上に、地球上の人間の経済社会のシステムが再組織され、自然の一方的な搾取に基礎をおかないことを意味している。このことは文化と価値の根本的な変革を要請する。アジア・太平洋には、自然に親しむ生活態度と生活観を育ててきた先住民族、女性、農民たちの経験と知恵が豊かにある。民衆の知恵は、人類社会のまったくちがったパラダイムと規範を指し示している。もちろん、私たちは前近代の時代に逆戻りするのがよいと言っているのではない。そうした知恵が、近代の遺産の中の肯定的側面と総合されて全面的に発展させられることを望んでいるのである。
私たちは、民衆の見地から平和と安全に関する焦眉の問題に取り組む。私たちは、安全保障国家の理論によって間違った方向へ導かれることを拒否する。あるいは他者を排除することを声高に叫ぶ民族的、宗教的自己絶対主義の罠にとらわれることを拒否する。私たちは、民衆の安全保障を確保することに努める。誰であろうと私たちの生命を傷つけ私たちを殺すものはおなじである。平和への求めに含まれているのは、すべての種類の暴力をやめよという呼びかけである。そしてとくに、紛争を解決するために暴力を行使するのをやめよという呼びかけである。私たちの地域全体に増大している民間の争い--町や村での、宗教上での、民族間での、党派間での――および国家間の暴力は、全面戦争に劣らない破壊と損害をもたらしているばかりではなく、私たちの膝元に軍事化をもたらしており、その結果、破壊の道具が今日では私たちの国の風景のますます目に付く特徴となっている。 国家やその他の権力装置に民衆に責任をもたせるように闘う一方で、私たちは民衆の制御の下に、財貨とサービスの生産、流通、消費のオルタナティブ・システムを作り始めるために私たちの力量増大をはかる。そして民衆に基礎をおく経済的、社会的、文化的システムを徐々に創出する営みを応援する。私たちは、あらゆるレベルでの民衆の知識と民衆の統治の普及と発展のための連携を結ぶことに努める。
抵抗しつつ、建設しつつ、私たちは私たち自身の地力をつける(empowerment)に努める。抵抗しなければ、私たちは私たちのオルタナティブをつくることはできない。つくることができなければ、私たちの抵抗は持続可能にはならない。新しい関係によって新しい社会を築くために、私たちは、私たちがすでに完璧なヴィジョンとそれへ至る道筋をつかんでいると主張はしない。私たちが持っているのは、かすかに光っている踏み分け道だけである。私たちは支配するシステムの存続に私たち自身が加担していることを、私たち自身が上下関係秩序を再生産していることを、私たち自身が不正を見ても沈黙していることを、そして私たち自身の恐怖と恥を、反省し自己批判することによって、その踏み分け道を広げ、薄明を明るくすることに努める。私たちの敵にたいして対決するように、私たち自身と対決することによって、抵抗は、家族から市町村へ、集団内部の関係から集団間の関係へと、あらゆるレベルで発展することになるであろう。
■”私たち自身の実践的参加、連携づくり”
私たちの闘争とヴィジョンの成果だけでなく、草の根の実践を通じてあたらしいオルタナティブを作り上げるためになされてきた建設的活動があげた成果をも、要約し、たたえたからには、私たちは、不撓不屈の希望とオプティミズムで、また新鮮な活力で、私たちの誓約を表明する。。
私たちは国境の内外で連合を作り、そして強化することを誓約する。このような連合の基礎は愛、平和、相互信頼、そして非搾取的で透明な関係であろう。このような連合は、単なる連帯の表明にとどまるものではなく、ダイナミックで有機的な循環性のシステムに基礎を置く、オルタナティブな、社会的な、経済的な、そしてエコロジカルな関係を促進するであろう。
私たちは、地域、国、世界のレベルで、現存の権力と意思決定の機構に積極的に介入するような、民衆から民衆への連合をつくることを誓約する。実力に裏打ちされたこのような介入がめざすのは、権力と意思決定の過程および機構の作用にあたらしい方向をあたえ、ガラス張りで、民主的なものにすることである。とくに私たちは、それらの作用が民衆の大多数の生活を荒廃させている、国際的、地域的な貿易と金融機関の透明性の保持と民主化を保証するためにたえまなく闘うことを誓約する。
私たちは、地域での生産と経済を強化し、再生させることを誓約する。それは大多数の民衆の生活を支えるシステムの基礎として働いているからである。このことを実現するために、私たちは、大規模な破壊的計画(地元の商店をつぶす巨大スーパーマーケットや大規模ダムなど)の押しつけに抵抗すること、自然資源を、持続可能な利用の活動によって保護し、保全すること、文化的、社会的活動の多様性を推進し、強化すること、健康管理、地域保健、職人技術、農業実践のような領域における、経験的に確かめられた伝統的知恵を力づけることを誓約する。そしてとりわけ、私たちは第一次生産物の生産者による、資源、生産、販売の民主的な統制を可能にし、回復することを誓約する。
私たちは、科学技術と社会とのまったく新しい関係を作ることを誓約する。それは、新しい知識と伝統的な活動や知恵とを総合する関係であり、生産過程を、金銭欲を満たすためではなく必要を満たすためのものにするために地方分散的にし、エコロジーにかない、ジェンダーに敏感なものにすることを保証する関係である。
私たちは、生物多様性を保存し、先住民族や地域社会が持っている知識と民衆の知的所有権を保護し、他国の生物種探査者、とりわけ多国籍企業と結託した連中が仕掛けてくる猛攻撃に対抗することを誓約する。地域独特の種とそれに関する知識や活動が、地域を構成する民衆の共同所有であり続けるように保証することは、私たちの努力に待つところが大きいであろう。このような知識を金銭欲と利益の力で独占しようとする企ては、効果的に反撃されるであろう。地域的な種の多様性の再生、農業、園芸、花卉栽培、養魚、森林育成、養鶏、畜産を総合する活動と結合された薬草園の設立は、私たちの行動目標の一つである。
私たちは、女性の力量を高めるためにたえまなくはたらき、女性と男性が、政治と公共のレベルにおいてだけでなく各人の家庭内においても、意思決定と管理にたいする平等な責任を分かち合うようになることを誓約する。家父長制の権力に、それが表明されるあらゆる機会をとらえて戦略的な闘いを行うことは、私たちのなすべき努めである。とくに、私たちは、女性と子供に対する、人身売買を含めたあらゆる形態の暴力の根絶へ向かって働くことを誓約する。私たちはまた、社会が果たす作用と言論の過程を、家族、市町村、社会を、平和と愛と協同という価値で豊かにする方向に向かわせるよう努める。
私たちは、アジア全域の労働者たちが、超過搾取、長時間労働、危険な労働条件にたいして行っている抵抗を拡大することを誓約する。それらはとくに農村部出身の若年女性労働者が被っている苦しみである。農村労働力流出の主な原因の一つである農村部の崩壊の原因を除去する努力が必要である。
私たちは、多国籍企業と商社が利益の短期回収を追求して工場を勝手気ままに移転させることに対する抵抗に加わる。私たちは、労働者の諸権利、とくに自立的な労働組合と労働運動を組織する権利のための闘いを誓う。私たちは、多国籍企業に対する効果的な抵抗をつくりあげるための、この地域全域をおおう民衆のネットワークを推進することを誓約する。
私たちは、移民労働者の差し迫った心配事を理解し、効果的な仕方で援助を見つけ、慰めを提供することを誓約する。同時に私たちは、生産、再生産、消費の諸条件への支配の撤回を確実なものにし得る資金とスペースとの発展を求める移民労働者運動を作りあげていく過程に加わる。
私たちは、先住民族と植民地化された人々の、自己統治と脱植民地化の闘いの支援を誓約する。私たちは、持続可能でない大規模開発計画に対する、私たちの粘り強い反対と抵抗とをたたえる。私たちは、取り壊し処分や立ち退き強制に対する闘いを継続する。
私たちは、宗教的不寛容に、無慈悲な軍事化に、途方もない費用のかかる核爆弾と大量破壊兵器の実験に本来備わっている広範囲に及ぶ暴力の源泉を根絶するという決意で活動することを誓約する。私たちは、平和、協力、万人の安全保障の世紀を導き入れるために努める。
私たちは、北の世界のライフスタイルの基礎であり、また南の諸国の少数の人々の望むところでもある、飽和的豊かさ、消費、消費欲望刺激主義という前提そのものを問い直すことを誓約する。このことは、社会的諸運動間で、活動家、敏感な知識人と専門家たちの間で、東の世界の汲めどもつきない知恵と活動を活用しながら、新しい理論、哲学、霊性、戦略とオルタナティブモデルを体系的に探求するために、理論と実践の面での批判的な意見交換を組織することによって企てられるであろう。
私たちは、民衆組織、自発的グループ、NGOの運営の透明で民主的な形態を促進し、私たちの運営と活動がお手盛り人事をやったり、不適切な代表選出方法になったりする危険をまぬかれることを誓約する。
私たちの集いは、ここが始まりでもなければ、ここで終わるのでもない。それは、人生と真理へ向かう私たちの旅の、英気を養い、新鮮さをよみがえらせ、若さを取りもどすためのほんの一時の休止である。私たちがここで、魂に活気を呼び覚ますこの木陰に憩うときも、私たちは、決して不正に対する私たちの怒りの感情を解いてはいないことを明言する。
英気を取りもどし、若返って、私たちは、お互いに支えあい、学びあう。なぜなら私たちは、お互いにちがうのだから。多様性が私たちの活力である。私たちの多様性をつうじてこそ、私たちは、お互いにより組織的に連携することができるし、屈服させようとする力に抵抗する私たちの努力を集約することができるし、お互いが豊かになる多元的関係を気づくことだできる。こうしたすべてのことについての活力を維持するために、私たちは、私たちに可能なことがらのヴィジョンを描いては描き直すプロセスに参加することを誓約する。それは同時に、ミクロなものと直接的なものをグローバルな関連において把握し直すことができるように、私たちの課題とオルタナティブを新たに組み建てなおすために、お互いが学びあう過程である。
サガルマタとは、エベレスト山のネパール語名である。私たちは、最初は、スリランカのコロンボに集まる計画であった。しかし私たちではどうにもできない事情によって、代替の場所が探された。真の連帯と勇気と支援の精神によって、ネパールの友人たちが、会合の受け入れを申し出てくれた。カトマンズにあっても、私たちの心と祈り、憂慮と願いはスリランカの民衆と共にある。そして紛争に対する彼らの、正義にかなった平和的な解決の求めとともにある。
(花崎皋平訳)
ラチャダムヌンの誓い(1992年) |
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