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オルタ提言の会(仮称)

第2回 
2009年7月20日

討論
※この議事録は、問題提起?問題提起?問題提起?を受けての討論をテーマごとに整理したものです。

◆(司会)労働することを前提として人間らしい生活ができる賃金を支払わせる、働きたい人に雇用の機会と多様な働き方を確保するという話と、「労働が怖い」という感覚から始まって、労働と所得保障を直結させない、働くことを必ずしも是としないという話と2つあったように思います。皆さんの意見はどうですか?

1.賃労働から逃れる/農村に行くのがオルタナティブ?

◆欧州にはアウトノミア運動があるが、いまどうなっているか?

→運動としてイメージされるような組織やまとまりがあるわけでない。
→空き家を占拠したりしてそこに住むこともあるんでしょう?
→日本では高円寺の「素人の乱」や「抵抗食の会」などはそういうイメージ。

◆?「地球的課題の実験村」に取り組んでいて、農村と都市の貧困の問題をどう結びつけるかを考えている。シンポジウムでは「賃労働はあまりよくないもの」という意見がよく出てくるのだが、それには違和感がある。「賃労働と資本から逃れて何ができる?」と思う。それと関連して、体制側が作り出している「農ブーム」がある。渋谷の女の子たちが「農ギャル」として農村に出かけたり、新聞や『エコノミスト』などの経済誌も取り上げている。しかし、賃労働の矛盾を覆い隠したまま、農村に行けばいいことがあるよ、と宣伝するのははたしてどうか。20?30代の人の「労働から逃れたい」という感覚はわからなくもないが、やっぱりわからない。

?雇用の責任はどこにあるか。昔は農業や地場産業だけでそこそこ食えていたし雇用力があったが、なぜそれが崩壊してしまったのか。「地域経済をどう作り変えるか」というところから、雇用の確保の議論をしていくべき。賃労働から逃げるのではなく、どういう賃労働ならいいか、と議論を立てていくべき。でないと、今の気分的な「農ブーム」にからめとられていく。

◆「お金を介さない生き方」という議論には危険性がある。生協の主婦たちは「賃労働で生きていない」というが、実は夫の賃金に依存して生きているから、無償に近い、あるいはパート並み賃金で働くことができる。一方で、「賃労働が怖い」というのもわかる。その両方をどう接合するか。いま、労働分配率が下がっているときに、「お金を使わない生活を」という議論はむしろ危険。まずは、働き手や低所得層の側にパイを奪い取っていく力関係を作ることが必要。

◆私は、もっと賃労働から抜け出ていくことを考えたい。日本にこんなに産業労働者がいるのか、ということもある。そうでないと、オルタナティブとは言えないのではないか。田舎で十分食べていけるような「半農半X」を成り立たせるようなシステムを考えていかないと。

→「半X」の部分はだいたいイラストレーターやデザイナーなどのカタカナ職業、つまり、専門的な技術を持った人たち、もともと食っていけそうな人たち。「半X」の部分に工場勤めなどは入ってこない。
→農村に行ける人は行ったらいいし、それは否定しないのだが……。それと、「素人の乱」をやっているような人は、人間関係の達人だったりする。オルタナティブを考えるというよりも、今の労働の場ですら生きていくのが難しい「人間関係弱者」をどうするかをまず考えたい。
→「素人の乱」は都会のマーケットの規模があって成立する部分もある。地方では、あれだけでは食っていけない。
→地方で手弁当の労働交換みたいなもので生きていける余地はあるのか?
→それだけで食べるのはむずかしいが、知り合いとの交流は都会よりも作りやすいかも。家賃も安い。逆に、保守的なコミュニティの縛りは強いので、「あの人たちは変な人たち」と見られることもあるが。
→日本の農村には90年代ぐらいまでオルタナティブとして兼業農家があった。それで生きていけたが崩壊してしまったところに今の問題がある。その崩壊の理由を問わずに「半農半X」という「おとぎ話」をしても意味はない。他方で、CO2対策のためとして電力会社が山林(底地)を買うなど、農村は新しい状況に置かれている。

◆?僕たちはあえて、野宿「労働者」として運動をやってきた。当事者には「働いて身を立ててきた」という労働倫理観が強く、労働への過剰な意義付けがある。働きの悪いやつを見下げるとか。僕らの実際の具体的要求は、公共事業で日雇い仕事をもっと出せということ。しかし、労働時間が短かったりすると「何だ! こんなの仕事じゃねえや」という反応にもなる。ただ、賃労働に固執することへの疑問もあり、その中から、「あうん」のような労働者の協同組合もでてきた。賃労働/非賃労働どっちがいいという話ではない。

?労働だけで自己実現を図る必要はないのではないか。社会運動をやる中で自己実現もできる。

→「労働の中の自己実現」を議論のひとつの軸として立てたらいいのではないか。
→日雇いの労働倫理観は、社会参加のあり方として労働しかなかったところから生まれてきた。
→労働に生きがいがあれば、最低賃金割れでもいいと思いますか?
→そうは思わないです。
→たいていは、その低い方に社会全体があわせていくようになる。それが「やりがいの搾取」とよばれるもの。全体への波及効果をトータルに見ていかないと。
→NPO法も、阪神大震災のときのボランティアの動きを見て、NPOを安く利用することを政府が考えた結果できたもの。
→やっぱり、そういうことが整理できていないと、「オルタナティブ」なんて眉唾だと思ってしまう。

◆60年代に、出稼ぎ「農民」組合か出稼ぎ「労働」組合かという論争があり、結局「農民」組合のほうを取った。それは運動方針に反映されていて、出稼ぎ者として労働条件の改善を求めるだけではなく、農業で食えるような社会の両方を望んだ。

2.雇用責任と福祉

◆日本の文脈で「フレキシュリティ」を入れたら大変なことになる。欧州でそれができるのは、労働組合の力が強いからと、賃金や労働条件が切り下げられてこぼれたときの福祉がちゃんとしているから。

◆戦後の労働運動の原点は「食える賃金=生活給をよこせ」ということ。それは現在でもリアリティがあるが、それだけでは不十分な状況になってきた。食えるだけの所得は、賃金の形とベーシック・インカムなどの2本立てになっていくのではないか。地域が企業誘致や補助金で食えるようにするだけではダメ。自治体による公共サービス創出が必要。

→群馬県上野村で面白い試みがある。若い人に労賃月5万円と家を保障するというもの。
→子育てを村全体で支援すると若い人がけっこう来るらしい。
→田舎の方が可能性がある。土地があって水があるから。ないのは人と資本。しかし、資本側も地方の土地を狙っている。
→人によってはどうしてもやりたくない種類の仕事はあるので、たんに雇用をつくればいいという話ではない。マックなどでも適合できる人はいるが、長く働けるものではない。自己実現できるような仕事がないということが問題。個別の職業への偏見・差別もある。

◆消費者運動としても、どういうモノを作るか、どういうサービスが提供されるか、ということと、どういう労働のあり方かということを関連付けて考えていきたい。

→日本の中でも、労働者にひどい扱いをするような企業のものは買わないと言う「日本版フェアトレード」の考え方が出てきている。

◆格差の問題。「カネのあるところ、収入のある人からまず取れ」という議論をしていくべき。

→累進課税の復活、法人税を上げることを考えるべき。ただ、そうすると企業が海外に逃げていくから、国際連帯税やタックスヘイブンの規制が必要になってくる。金融工学なんて詐欺みたいなものだが、みんなそう思っていないようだ。

◆アジアの人々の生活賃金も上げていくことを同時に考えていかないといけない。国際連帯と非正規雇用の問題をつなげて考えることが重要。

→中国の天洋食品の毒ギョーザ事件があって、生協労連が何を言うかに注目していた。私だったら、中国人労働者の労働条件を上げろと言う。しかし、生協労連は、日本の労働条件のことしか言わなかった。

◆労働の場で「身分」差別が目立ってきた。正規と非正規が同じ職場にいて、まったく待遇が違う。「同一労働同一賃金」の原則を復活させるべき。
→それは女性労働がずっと言ってきていること。男の運動が聞き入れなかっただけ。同一価値労働同一賃金が正確。でも、今は「連合」でもだんだんそのことを言い出している。

◆「官製ワーキングプア」ということが言われている。自治体の非常勤職員は、この10年で、年金受給の高齢者中心から、女性中心の若年層による正規職員とほとんど同じ仕事へと大きく変わり、人数も増えたが、雇用(任用)のあり方が実態に合っていない。組合と当局による非常勤職員のあり方そのものの検討が始 まっている自治体もある。

3.運動の主体

◆日本の状況は突出して悪い。アメリカすらそうなっていない。首切りがあれば、みんなもっと怒っていいはずだが、怒りが内向させられている。日本の資本主義は、95年以来の労働者使い捨ての制度的常態化で、労働力の再生産ができないようになってきているのではないか。しかし、そうした「使い捨て」にこちら側がまったく反撃できなくなっている状況。

◆?日本で60?70年代にウーマンリブがあったがそれは「女解放」の運動。そのころ欧州は、男も育児に参加できる社会作りを進めていて、日本はずっと遅れている。

?「日本ではなぜ怒らないか」という話だが、まず欧州とは労働者を守る法律が違う。それと、日本の労働運動はプロパー中心で、先鋭的・知的な人が中心にいる運動はけっこう作ってきたけど、女性や障害者、野宿者など、いちばん弱い人たちは先頭にいない。派遣村も意味はあったけど、「助けに来てもらっている」という感じがする。当事者が自発的でない。それと関連して、日本では学者が学者のままでいるだけで現場に出ていないという問題もある。欧州でもアジアでも大学では労働者教育をやっているが、日本ではぜんぜんやっていない。「サービス提供型」(困った人を助ける)、「メルティングポット型」(ひとりひとりの違いをいちいち気にしていられない)から、「サラダボウル型」(ひとりひとりの力をどう引き出していくか)という運動に変わっていくべき。日本で労働三権がまだあるうちに、なんとか組織していきたい。

?フリーターでやってきた人たちは「世の中を恨んだ」と言っている。しかし、その運動はめったにできることではない。うつ病になりながら運動に参加するのはむり、などと言わずに、本当に当事者が全面的に出る運動へ。

→たしかに、大学は、運動側が必要とする研究をやっていないように思う。しかし、大学の教員の状況をみると、独立行政法人化により、人員削減がおこなわれ、雑用が多くなっている。また、非正規雇用化などで、業績をあげることが第一になり、運動に役立つような研究どころではなくなったということもあるが。
→オルタナティブを討論する原点として、「怒り」が前提に来るべき。でないと、いくら制度設計しても仕方ない。
→怒りがないのではない。ホットラインなど聞いても、みな怒りまくっている。
→しかし、怒りが内向して、制度を変えるための表現になっていきにくい。
→みんなが貧乏になればいい、死ねばいい、という怒りになってしまっている。

4.次回
もう一度「雇用と労働」をテーマにやる。報告者は立てない。今日の議論を基に、いくつか議論の柱を立てる。
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