『季刊ピープルズ・プラン』49号掲載
ジェンダー視点からオルタナティブ社会を考える
世界社会フォーラム・首都圏(WSF2010 in TOKYO)
分科会報告 2010年1月24日
討論
▼戸籍・国籍と生存保障
赤谷まりえ(進行役・お茶の水女子大学大学院生)
鈴木さんには、新自由主義とグローバリズムを俯瞰するような議論をフェミニズムの立場から語っていただきました。青山さんは移住する女性たちの背景と視点からのご報告。船橋さんは、日本の政策の問題を絡めながら、オルタナティブについて語っていただきました。あらためて、今日の報告の中でそれぞれ一番強調したい点を話していただけますか?
青山 最後の方で触れましたが、一番関心があるのが性差別と国籍による差別、階級による差別が移住労働の場合はとくに入り組んでいて、ジェンダーだけではなくそうした複合的な差別をどう捉えるか、ということですね。
鈴木 先ほどあまり話せなかったことですが、日本の中ではイエ制度が現在は存在していないことになっているけれど、いまだに、堕胎罪や婚外子差別の問題などは残っています。女性差別撤廃条約の委員会勧告でもその問題は触れられています。私が取り組んでいる課題では、夫婦の中での性暴力が処罰されずにいる、という旧態依然の問題もあります。
青山 憲法二四条は「婚姻における両性の平等」を定めてますよね。私自身はこれを改正すべきという立場です。ひとつには、現行の婚姻は差別的だということ、もうひとつは、性的マイノリティに対する差別を含んでいるという点からです。結局のところ、家族制度がこういう差別の上に成り立っている。
船橋 私は二四条を変えさせない、という立場でやってきましたから、いまの指摘はちょっとショックです。もちろん戸籍制度などはなくすべきだという考えですが。いまの社会は、結婚している男女のカップルがすべての基本になっています。そうでないと不利益を被ってしまう。私は大学で教えていますが、学生に対して、二〇歳になったら分籍できるからそうしなさいって言っているんですね。戸籍そのものは廃止できないけど、それを無化することはできる。私は時々転籍しているんですが、関西に住んでいたとき、転籍したというだけで、「あの人は被差別部落出身なんじゃないか」って疑われるんですね。いまは松戸市に住んでいますが、七〇歳以上では「配偶者あり」がわずか三割で、圧倒的に単身者世帯なんです。ですから、一人になっても安心して暮らせる社会をいかに地域で作っていくかという課題に、NPOを作って取り組んでいるところです。
発言者A 私はフィリピンに三年ほど住んでいたことがあります。日本では国家に承認される制度としての結婚はしたくないと思っていました。フィリピンでは、スラム近隣のマニラの下町でともに生活もしながら、移住労働先の日本から帰ってきた女性や子どもたちを支援するNGOでボランティアをしていました。女性たちは、ブローカーの斡旋で日本の性産業で働き、そこで出会った日本人男性と同棲や結婚をし、子どもを産み帰国した人たちです。日本人夫と法律婚をして、子どもが日本国籍を持っているかどうかは、女性や子どもの権利要求に大きな違いがあるのです。「制度としての結婚はしない」ということも、夜中までおしゃべりしてわかりあえたのは、「制度」に抑圧される者同士だったからでしょう。日本では国籍は血統主義をとっていますが、出生地主義をとっている国も多いので、日本で生まれたら日本国籍を取れるようにすれば、子どもとその母親(父親)が、安心して暮らせるようになると思います。
青山 それをすれば大きな制度改革になりますね。血統主義よりははるかにましではないかと思います。そもそも日本の場合、国籍がなければ永住者や定住者であっても職業選択や社会保障の受給に制限がありますから。2008年の最高裁判決以降、日本人父と外国人母の子どもは、父親が生後認知をすれば日本国籍を取ることができるようになりました。婚姻の有無も、今のところは実際の血縁の有無も問われない。「日本人」の枠を大きく揺るがせる可能性のある判決として私は注目しています。
発言者B 今の話にはちょっと違和感があります。日本国籍がないと日本に住んでいても生存が保障されないということにもつながりかねないんじゃないでしょうか?
発言者C 外国に入国するときに、「nationality(国籍)」と「citizenship(市民権)」の二つを書類に書くようになっていますよね。日本人だったら、「なぜ同じことを二度聞くの?」と思いがちですが、この二つが違っている人が世界にはたくさんいますよね。
青山 一言で説明できませんけれど、欧米の「市民権」概念をそのまま輸入できないことを意識する必要があります。国家に対する「市民」と「国民」の意味が違うからです。日本の場合は日本国籍を取って「国民」にならなければ法的に保証されない市民的権利が多々あるので、現実には国籍取得をめざさざるをえない場合も多くなります。
▼「個人単位」をどう考える?―リベラリズムをめぐって
発言者B 船橋さんの言う「個人単位の社会システム」というのにちょっと引っかかるところがあります。社会保障が個人単位であるべきというのは賛成だけど、近代というものは農村共同体を壊していっていろんなものを個人に委ね、それが行き詰まっているのが現状だと思うんです。で、次をどうするか、といったときに、個人中心のあり方でよいか、親密圏のあり方はどうなっていくのか。僕は、個人単位の社会システムというよりも、コミュニティの再生も考えていった方がいいと思っているんですけど。
船橋 少し表現がまずかったかもしれません。女性運動は、近代社会の中でいかに女性が社会に参加し「自立」していくかを考えてきました。他方で、ウーマンリブは障がい者運動から「共生」の問題を突きつけられたわけです。「自立」と「共生」という対立する概念をどう使っていくか。解放されていない女性にとっては、リベラル・フェミニズムのいう「自立」は意味があったかもしれません。しかし、自立を座標軸の原点に置くのではなく、つねに座標軸をずらしながら考えていくのがフェミニズムだと思いますね。
鈴木 個人を中心としつつも、それがバラバラだというのではなく、自立を前提としたつながりが必要だという位置づけです。制度(法)が行うべきでないことは、たとえば婚姻といった特定のつながりを差別的に特権化してしまうことであり、他方で、法が行うべきことは、特定の個人(たち)に依存せねば生きていけない人びとの生を保障するということです。しかし、その場合の制度というものが、現在の戸籍制度に基づいた家族制度であってはいけません。
発言者B リベラリズムと新自由主義(ネオリベ)を使い分けないことによる議論の混乱があるような気がします。
青山 リベラリズムはやっぱり大事です。リベラリズムの議論では、人は他人との交渉のなかで妥協しながらある程度の自由を達成して生きるという事実が基本です。それで、アマルティア・センが言うような、一人一人の内発的な能力がどれだけ実現されるかによって自由度を測る発想も出てくる。たとえば障がいがあって、誰かのサポートがなければ能力を実現することができないならば、その人が自由であるためにサポートは必要条件です。「死ぬのも『自由』、生きるのも『自由』。人の助けは借りるな」みたいな新自由主義的自己責任論は、ほんらいのリベラリズムを無視していると私は思います。
鈴木 私も、個人単位を強調すると新自由主義に回収され、家族単位を強調すれば回収されない、とは一概には言えないと思っています。
発言者D 私も鈴木さんにおおよそ同意です。新自由主義は「自立幻想」を強めました。しかし、新自由主義が個人の生存を保障しないことはこの間はっきりしてきたと思うんです。その意味では、個人の自立を強調しても、かならずしも新自由主義に乗っかることにはならないのではないでしょうか。
そこで質問なんですが、私たちは、家族や国家を強調する保守主義と、自己責任を強調する新自由主義という二つの敵と闘ってきました。男女雇用機会均等法や労働の問題を通じて、フェミニズムの側は新自由主義の問題をどういうふうに見てきたのでしょうか?
船橋 ある一部の女性にとっては、新自由主義が社会参画を進めた側面はたしかにあります。それが一番明確に出てきたのは、均等法というよりも、小泉政権の「構造改革」ではないでしょうか。フェミニズムの中でも評価の分かれるところです。でも、均等法に対しては、フェミニストと呼ばれる人びとはかなり否定的だったような気がします。
発言者A 女性差別撤廃条約を日本が批准する際、労働については全般にわたっては男女差別を禁止した法がなく、新たな法が必要でした。他の国では条約の内容に添う男女平等法などが制定され、次々と男女平等が実現される状況でした。日本でも私たちは広く連帯をつくり「男女雇用平等法」を求める運動を展開しましたが、成立したのは、男女雇用機会均等法。あの当時「保護か平等か」という言い方がされましたが、求めたのは、男性をモデルとした平等ではなく、人間らしい生活のできる男女の「保護も平等も」でした。均等法成立によって、労働者は正規と非正規に分断され、正規の中では男並みに頑張る女性のみが男性待遇となりました。こうして、労働者間の、また女性労働者間の格差は拡大しています。いま介護労働など、資格があっても厳しい労働条件で働き続けられない人は増えています。そして海外から介護労働者を受け入れることになりましたが、彼ら、彼女らはさらに低い労働条件でも働かされ、分断は進むのではないでしょうか。そういう意味で「均等法」成立は、労働が、社会が分断されていく分岐点だったように思います。
鈴木 船橋さんのレジュメの中に、リプロダクティブ・ライツ/ヘルスを認めた1994年の「カイロ行動計画」があります。しかし、その背景に新自由主義的なものを嗅ぎ取って、ここから距離を取ろうという人たちもいます。でも、自分たちの要求だけを100%勝ち取ることは実際には難しくて、新自由主義的なものが潜り込んでしまうこともあります。ですから、その入り込んだものをどう抑えていくかが次の課題になると思っています。
船橋 私自身は、リプロダクティブ・ライツ/ヘルスという言葉だけを国連が奪ってしまうことへの批判があった、と理解していたんですが。
鈴木 「行動計画」に対してはいろいろな批判があったので、一概には言えません。宗教原理主義の立場からリプロに反対する勢力もありました。製薬会社の意向が背景にあったという批判もあります。
青山 もうひとつ、フェミニズムが新自由主義ではなくて保守主義と結ぶことは、セクシュアリティの問題が絡むと珍しくないです。たとえば、「性産業を廃絶しろ」という主張でフェミニズムと保守主義が一致するとか。アメリカでは、ブッシュ政権が性労働者を「労働者」と認めるNGOなどへの助成金を停止したので、実際に性産業で働いている人びとの権利や健康の確保にダメージをあたえました。これを止めるどころか推進した女性運動は多い。私はフェミニズムは一枚岩でないし、である必要もないと思っていますが、分断は「敵のせい」ではなくて内在的なものです。
▼運動のつながりと分断
鈴木 少し話が飛びますが、今日話したい別のテーマとして、運動を作っていくときに、さまざまな立場の間でどう連携していけるかという問題がありますね。
発言者E 六?七年ぐらい前に非正規労働者の問題に関わったのですが、今日は、非正規の多くを占める女性の問題をどう考えたらいいかと思って、ここに来ました。首都圏のいまの運動を見ても、やはり男性中心的だと思います。それで最近では女性の貧困などをテーマにした集まりに出かけたりしているんですが、ジェンダー視点ということになるといろんな話がありすぎて、ちょっと足踏みしてしまうところがあります。
発言者A かつては正規労働者の労働組合しかなく、非正規の組織化をまったく進めていませんでした。私たちの会でも「女労組」を作りたいと言っていたので、大阪、神奈川、東京に女性ユニオンが出来たときは、うれしかったです。最近反貧困の取り組みが広がっています。女性ユニオンの人たちと「女性は以前から貧しかったけれど、男性の非正規労働者が増えてきて、やっと非正規労働者の問題が注目されるようになったね」と話しました。「やっと」ではあるけれど、一歩前進。一歩ずつでも進んでいけばいいかなと思っています。
鈴木 日本だけではなくて欧米でもそうですけど、男性の労働組合が女性の組織化に力を入れなかったり、女性を排除してきた歴史があります。会社側にもそれは都合がよくて、労使の利害が合致してしまったんですね。
今日の「世界社会フォーラム・首都圏」がまさにそうですが、多様な利害を抱えた人たちがどのような関わり方をしていくのか、特定のアイデンティティだけに凝り固まらない運動をどう作っていくのかが大事だと思います。
青山 いろいろなものを落ちこぼしてきた女性運動自身も反省すべき点がおおありです。ただ、「女性」というだけで同じ目標に向かえるわけではない、ということにはポジティブな面もあるんです。私自身も性的マイノリティですし、「同じ」という前提だけで息が苦しい。それで女性運動はちょっとかじって「だめだ!」と思って、まちがってPP研に来ちゃったんですけど(笑)。言い古されたことですが、政治的目標の達成を優先するために利益集団の団結をキープする従来のスタイルでは、集団の中の違いとか、互いの関係性や自分自身が変わっていくことに対応できません。
鈴木 他方では、アイデンティティには人に安心感をもたらす面もありますよね。とくに、制度からはじかれてしまった人たちには。生存が脅かされている人にとっては、たとえば排外主義がひとつの生きる手掛かりになったりしてしまいます。ですから、立場は違っても、彼(女)たちと私たちとはそれほど遠いところにいるわけではありません。もちろん、排外主義はおかしい、ということを私たちはきっちりと言っていきつつも、それをもたらす構造自体はきちんと考えていかなければいけないと思います。
青山 権力から遠い人ほど、現行構造をどう利用するかが死活問題ですからね。消費社会の魔力もあるし。たとえば、「月収一五万円のベーシック・インカム」論は理念としてはいいですけど、それを言えるのは今この日本社会で食うに足りる以上のものをもっている人だけでしょう。ひどい目に遭っても移住を繰り返す移住労働者によく会いますが、貧困からも地域社会の束縛からも抜け出したい部分が大きいからだと思います。そういう意味ではたしかに、彼女たちは私たちとそれほど遠いところにいない。だから、彼女たちを構造の犠牲者と言うだけでは不十分すぎるんです。
鈴木 先ほどAさんがおっしゃった国籍の問題とも関係しますが、既存の制度の周辺にある人びとは、制度に対してある魅力を持たされてしまっていることが往々にしてあります。しかし、そういう立場に置かれていない人間は、そう感じる人を批判することはできない、というところは押さえておくべきだと思います。
赤谷 なかなかこういう集まりはもてないので、今日は本当に有益だったと思います。どうもありがとうございました。
ジェンダー視点からオルタナティブ社会を考える
世界社会フォーラム・首都圏(WSF2010 in TOKYO)
分科会報告 2010年1月24日
討論
▼戸籍・国籍と生存保障
赤谷まりえ(進行役・お茶の水女子大学大学院生)
鈴木さんには、新自由主義とグローバリズムを俯瞰するような議論をフェミニズムの立場から語っていただきました。青山さんは移住する女性たちの背景と視点からのご報告。船橋さんは、日本の政策の問題を絡めながら、オルタナティブについて語っていただきました。あらためて、今日の報告の中でそれぞれ一番強調したい点を話していただけますか?
青山 最後の方で触れましたが、一番関心があるのが性差別と国籍による差別、階級による差別が移住労働の場合はとくに入り組んでいて、ジェンダーだけではなくそうした複合的な差別をどう捉えるか、ということですね。
鈴木 先ほどあまり話せなかったことですが、日本の中ではイエ制度が現在は存在していないことになっているけれど、いまだに、堕胎罪や婚外子差別の問題などは残っています。女性差別撤廃条約の委員会勧告でもその問題は触れられています。私が取り組んでいる課題では、夫婦の中での性暴力が処罰されずにいる、という旧態依然の問題もあります。
青山 憲法二四条は「婚姻における両性の平等」を定めてますよね。私自身はこれを改正すべきという立場です。ひとつには、現行の婚姻は差別的だということ、もうひとつは、性的マイノリティに対する差別を含んでいるという点からです。結局のところ、家族制度がこういう差別の上に成り立っている。
船橋 私は二四条を変えさせない、という立場でやってきましたから、いまの指摘はちょっとショックです。もちろん戸籍制度などはなくすべきだという考えですが。いまの社会は、結婚している男女のカップルがすべての基本になっています。そうでないと不利益を被ってしまう。私は大学で教えていますが、学生に対して、二〇歳になったら分籍できるからそうしなさいって言っているんですね。戸籍そのものは廃止できないけど、それを無化することはできる。私は時々転籍しているんですが、関西に住んでいたとき、転籍したというだけで、「あの人は被差別部落出身なんじゃないか」って疑われるんですね。いまは松戸市に住んでいますが、七〇歳以上では「配偶者あり」がわずか三割で、圧倒的に単身者世帯なんです。ですから、一人になっても安心して暮らせる社会をいかに地域で作っていくかという課題に、NPOを作って取り組んでいるところです。
発言者A 私はフィリピンに三年ほど住んでいたことがあります。日本では国家に承認される制度としての結婚はしたくないと思っていました。フィリピンでは、スラム近隣のマニラの下町でともに生活もしながら、移住労働先の日本から帰ってきた女性や子どもたちを支援するNGOでボランティアをしていました。女性たちは、ブローカーの斡旋で日本の性産業で働き、そこで出会った日本人男性と同棲や結婚をし、子どもを産み帰国した人たちです。日本人夫と法律婚をして、子どもが日本国籍を持っているかどうかは、女性や子どもの権利要求に大きな違いがあるのです。「制度としての結婚はしない」ということも、夜中までおしゃべりしてわかりあえたのは、「制度」に抑圧される者同士だったからでしょう。日本では国籍は血統主義をとっていますが、出生地主義をとっている国も多いので、日本で生まれたら日本国籍を取れるようにすれば、子どもとその母親(父親)が、安心して暮らせるようになると思います。
青山 それをすれば大きな制度改革になりますね。血統主義よりははるかにましではないかと思います。そもそも日本の場合、国籍がなければ永住者や定住者であっても職業選択や社会保障の受給に制限がありますから。2008年の最高裁判決以降、日本人父と外国人母の子どもは、父親が生後認知をすれば日本国籍を取ることができるようになりました。婚姻の有無も、今のところは実際の血縁の有無も問われない。「日本人」の枠を大きく揺るがせる可能性のある判決として私は注目しています。
発言者B 今の話にはちょっと違和感があります。日本国籍がないと日本に住んでいても生存が保障されないということにもつながりかねないんじゃないでしょうか?
発言者C 外国に入国するときに、「nationality(国籍)」と「citizenship(市民権)」の二つを書類に書くようになっていますよね。日本人だったら、「なぜ同じことを二度聞くの?」と思いがちですが、この二つが違っている人が世界にはたくさんいますよね。
青山 一言で説明できませんけれど、欧米の「市民権」概念をそのまま輸入できないことを意識する必要があります。国家に対する「市民」と「国民」の意味が違うからです。日本の場合は日本国籍を取って「国民」にならなければ法的に保証されない市民的権利が多々あるので、現実には国籍取得をめざさざるをえない場合も多くなります。
▼「個人単位」をどう考える?―リベラリズムをめぐって
発言者B 船橋さんの言う「個人単位の社会システム」というのにちょっと引っかかるところがあります。社会保障が個人単位であるべきというのは賛成だけど、近代というものは農村共同体を壊していっていろんなものを個人に委ね、それが行き詰まっているのが現状だと思うんです。で、次をどうするか、といったときに、個人中心のあり方でよいか、親密圏のあり方はどうなっていくのか。僕は、個人単位の社会システムというよりも、コミュニティの再生も考えていった方がいいと思っているんですけど。
船橋 少し表現がまずかったかもしれません。女性運動は、近代社会の中でいかに女性が社会に参加し「自立」していくかを考えてきました。他方で、ウーマンリブは障がい者運動から「共生」の問題を突きつけられたわけです。「自立」と「共生」という対立する概念をどう使っていくか。解放されていない女性にとっては、リベラル・フェミニズムのいう「自立」は意味があったかもしれません。しかし、自立を座標軸の原点に置くのではなく、つねに座標軸をずらしながら考えていくのがフェミニズムだと思いますね。
鈴木 個人を中心としつつも、それがバラバラだというのではなく、自立を前提としたつながりが必要だという位置づけです。制度(法)が行うべきでないことは、たとえば婚姻といった特定のつながりを差別的に特権化してしまうことであり、他方で、法が行うべきことは、特定の個人(たち)に依存せねば生きていけない人びとの生を保障するということです。しかし、その場合の制度というものが、現在の戸籍制度に基づいた家族制度であってはいけません。
発言者B リベラリズムと新自由主義(ネオリベ)を使い分けないことによる議論の混乱があるような気がします。
青山 リベラリズムはやっぱり大事です。リベラリズムの議論では、人は他人との交渉のなかで妥協しながらある程度の自由を達成して生きるという事実が基本です。それで、アマルティア・センが言うような、一人一人の内発的な能力がどれだけ実現されるかによって自由度を測る発想も出てくる。たとえば障がいがあって、誰かのサポートがなければ能力を実現することができないならば、その人が自由であるためにサポートは必要条件です。「死ぬのも『自由』、生きるのも『自由』。人の助けは借りるな」みたいな新自由主義的自己責任論は、ほんらいのリベラリズムを無視していると私は思います。
鈴木 私も、個人単位を強調すると新自由主義に回収され、家族単位を強調すれば回収されない、とは一概には言えないと思っています。
発言者D 私も鈴木さんにおおよそ同意です。新自由主義は「自立幻想」を強めました。しかし、新自由主義が個人の生存を保障しないことはこの間はっきりしてきたと思うんです。その意味では、個人の自立を強調しても、かならずしも新自由主義に乗っかることにはならないのではないでしょうか。
そこで質問なんですが、私たちは、家族や国家を強調する保守主義と、自己責任を強調する新自由主義という二つの敵と闘ってきました。男女雇用機会均等法や労働の問題を通じて、フェミニズムの側は新自由主義の問題をどういうふうに見てきたのでしょうか?
船橋 ある一部の女性にとっては、新自由主義が社会参画を進めた側面はたしかにあります。それが一番明確に出てきたのは、均等法というよりも、小泉政権の「構造改革」ではないでしょうか。フェミニズムの中でも評価の分かれるところです。でも、均等法に対しては、フェミニストと呼ばれる人びとはかなり否定的だったような気がします。
発言者A 女性差別撤廃条約を日本が批准する際、労働については全般にわたっては男女差別を禁止した法がなく、新たな法が必要でした。他の国では条約の内容に添う男女平等法などが制定され、次々と男女平等が実現される状況でした。日本でも私たちは広く連帯をつくり「男女雇用平等法」を求める運動を展開しましたが、成立したのは、男女雇用機会均等法。あの当時「保護か平等か」という言い方がされましたが、求めたのは、男性をモデルとした平等ではなく、人間らしい生活のできる男女の「保護も平等も」でした。均等法成立によって、労働者は正規と非正規に分断され、正規の中では男並みに頑張る女性のみが男性待遇となりました。こうして、労働者間の、また女性労働者間の格差は拡大しています。いま介護労働など、資格があっても厳しい労働条件で働き続けられない人は増えています。そして海外から介護労働者を受け入れることになりましたが、彼ら、彼女らはさらに低い労働条件でも働かされ、分断は進むのではないでしょうか。そういう意味で「均等法」成立は、労働が、社会が分断されていく分岐点だったように思います。
鈴木 船橋さんのレジュメの中に、リプロダクティブ・ライツ/ヘルスを認めた1994年の「カイロ行動計画」があります。しかし、その背景に新自由主義的なものを嗅ぎ取って、ここから距離を取ろうという人たちもいます。でも、自分たちの要求だけを100%勝ち取ることは実際には難しくて、新自由主義的なものが潜り込んでしまうこともあります。ですから、その入り込んだものをどう抑えていくかが次の課題になると思っています。
船橋 私自身は、リプロダクティブ・ライツ/ヘルスという言葉だけを国連が奪ってしまうことへの批判があった、と理解していたんですが。
鈴木 「行動計画」に対してはいろいろな批判があったので、一概には言えません。宗教原理主義の立場からリプロに反対する勢力もありました。製薬会社の意向が背景にあったという批判もあります。
青山 もうひとつ、フェミニズムが新自由主義ではなくて保守主義と結ぶことは、セクシュアリティの問題が絡むと珍しくないです。たとえば、「性産業を廃絶しろ」という主張でフェミニズムと保守主義が一致するとか。アメリカでは、ブッシュ政権が性労働者を「労働者」と認めるNGOなどへの助成金を停止したので、実際に性産業で働いている人びとの権利や健康の確保にダメージをあたえました。これを止めるどころか推進した女性運動は多い。私はフェミニズムは一枚岩でないし、である必要もないと思っていますが、分断は「敵のせい」ではなくて内在的なものです。
▼運動のつながりと分断
鈴木 少し話が飛びますが、今日話したい別のテーマとして、運動を作っていくときに、さまざまな立場の間でどう連携していけるかという問題がありますね。
発言者E 六?七年ぐらい前に非正規労働者の問題に関わったのですが、今日は、非正規の多くを占める女性の問題をどう考えたらいいかと思って、ここに来ました。首都圏のいまの運動を見ても、やはり男性中心的だと思います。それで最近では女性の貧困などをテーマにした集まりに出かけたりしているんですが、ジェンダー視点ということになるといろんな話がありすぎて、ちょっと足踏みしてしまうところがあります。
発言者A かつては正規労働者の労働組合しかなく、非正規の組織化をまったく進めていませんでした。私たちの会でも「女労組」を作りたいと言っていたので、大阪、神奈川、東京に女性ユニオンが出来たときは、うれしかったです。最近反貧困の取り組みが広がっています。女性ユニオンの人たちと「女性は以前から貧しかったけれど、男性の非正規労働者が増えてきて、やっと非正規労働者の問題が注目されるようになったね」と話しました。「やっと」ではあるけれど、一歩前進。一歩ずつでも進んでいけばいいかなと思っています。
鈴木 日本だけではなくて欧米でもそうですけど、男性の労働組合が女性の組織化に力を入れなかったり、女性を排除してきた歴史があります。会社側にもそれは都合がよくて、労使の利害が合致してしまったんですね。
今日の「世界社会フォーラム・首都圏」がまさにそうですが、多様な利害を抱えた人たちがどのような関わり方をしていくのか、特定のアイデンティティだけに凝り固まらない運動をどう作っていくのかが大事だと思います。
青山 いろいろなものを落ちこぼしてきた女性運動自身も反省すべき点がおおありです。ただ、「女性」というだけで同じ目標に向かえるわけではない、ということにはポジティブな面もあるんです。私自身も性的マイノリティですし、「同じ」という前提だけで息が苦しい。それで女性運動はちょっとかじって「だめだ!」と思って、まちがってPP研に来ちゃったんですけど(笑)。言い古されたことですが、政治的目標の達成を優先するために利益集団の団結をキープする従来のスタイルでは、集団の中の違いとか、互いの関係性や自分自身が変わっていくことに対応できません。
鈴木 他方では、アイデンティティには人に安心感をもたらす面もありますよね。とくに、制度からはじかれてしまった人たちには。生存が脅かされている人にとっては、たとえば排外主義がひとつの生きる手掛かりになったりしてしまいます。ですから、立場は違っても、彼(女)たちと私たちとはそれほど遠いところにいるわけではありません。もちろん、排外主義はおかしい、ということを私たちはきっちりと言っていきつつも、それをもたらす構造自体はきちんと考えていかなければいけないと思います。
青山 権力から遠い人ほど、現行構造をどう利用するかが死活問題ですからね。消費社会の魔力もあるし。たとえば、「月収一五万円のベーシック・インカム」論は理念としてはいいですけど、それを言えるのは今この日本社会で食うに足りる以上のものをもっている人だけでしょう。ひどい目に遭っても移住を繰り返す移住労働者によく会いますが、貧困からも地域社会の束縛からも抜け出したい部分が大きいからだと思います。そういう意味ではたしかに、彼女たちは私たちとそれほど遠いところにいない。だから、彼女たちを構造の犠牲者と言うだけでは不十分すぎるんです。
鈴木 先ほどAさんがおっしゃった国籍の問題とも関係しますが、既存の制度の周辺にある人びとは、制度に対してある魅力を持たされてしまっていることが往々にしてあります。しかし、そういう立場に置かれていない人間は、そう感じる人を批判することはできない、というところは押さえておくべきだと思います。
赤谷 なかなかこういう集まりはもてないので、今日は本当に有益だったと思います。どうもありがとうございました。
[WSF2010]日本の男女平等政策と女性運動―なぜ性差別解消が進まないのか/船橋邦子(2010年1月) |
議事録 |
第7回 ジェンダー視点からオルタナティブを構想する 討論(2010年2月) |